さよならイングリッシュガーデン

日曜日の午後に松江に着いた。この日は市内に一泊して、翌日は鳥取、そして大阪へ向かう予定だった。
あまり時間はなかったけれど、市内の観光スポットを周れるだけ周ろうと決めて、まず、「松江イングリッシュガーデン」というところへ行った。

宍道湖(しんじこ)の湖畔に作られたミュージアムの庭園がイングリッシュガーデンになっている。イギリスからガーデンデザイナーを招いて作ってもらったそうだ。
入場無料である。
やけに人が多い。それも高齢の女性ばかり。。イングリッシュガーデンのほうから帰ってくる人、向かう人、みなシニアのおばさまたちである。
昔から園芸なんて高齢者の趣味と言われていたがそれにしたって・・・と思ったら違った。地元の画家か何かの発表会だったらしく、生徒さんやその友達、その友達から誘われて半分お義理で来た友達の友達とかが集まっているだけであった。
全員、イングリッシュ・ガーデンには興味なしのご様子で、友達の友達の友達の先生の作品が飾られた回廊を一周しては帰っていく。

イングリッシュ・ガーデンとは「計画的な混乱」と言いかえることが出来る、とこの園のパンフレットに書いてあったが、なかなか良い表現だと思った。そう言ってもらえると、すごくよく分かる。計画的な混乱。

庭は庭という時点で既に人間の手が入っているので自然(ナチュラル)ではありえない。しかしそれを分かったうえであえて自然を目指そうとする園芸スタイル。それは矛盾であり欺瞞でありそして何より無謀な試み。
しかしそれを成し遂げることに意義がある。
と、僕は解釈する。
限りなく自然に近い<嘘の自然>を所有すること。それをコントロールして<嘘の自然>を本物のように愛でること。感じること。
計画的な混乱、管理された自然。

でも、と僕は立ち止まる。
だったら僕は<本当の嘘>でいい。
わざわざ自然を装う必要なんかない。計画的な混乱でも無計画な秩序でも、僕が見たいのは胸がキュンとするような「色のある庭」だからだ。
それにはある程度花が必要で、人工的な脚色が不可欠である。
無料にもかかわらず誰もこの庭に興味を示さないのは、色がないからである。
人は花が見たいものだ。記念撮影をするなら花の咲いていないバラのアーチやただのベンチより、100本のストックの前で撮りたい。そして皮肉なことに100本のストックのほうがはるかに「季節」を感じさせるのだ、我々日本人には。パンジーでもストックでもアリッサムでも、どんなに寒くても健気に咲き誇るその姿にこそ日本人は冬の冷たさ、哀愁を見る。

そもそもイングリッシュガーデンは色彩(咲き誇る花たち)を楽しむための庭ではない。
そんなことくらいは僕だって知っている。
目で楽しむというより、植物に触れ、雰囲気や自然の息吹を肌で感じる方に重点が置かれている。
しかし・・・、「そもそも論」で恐縮だが、僕はイギリス人なんかに自然がどうのと上から目線でウンチクを垂れられること自体に我慢がならない。
イギリス人なんかに自然の豊かさを教えられるいわれはない。特に我々日本人にはない。と僕は思っている。

四季の移ろいや自然への愛着、草花がささやく声を聞き分ける感性は恐らく我々日本人が世界で最も鋭敏であろう。それはこの国の文化を見れば一目瞭然だ。今さら言うまでもないが、万葉集から松尾芭蕉、川端康成、宮崎駿まで、およそ日本のハイ&サブカルチャーの源にあるのは山、川、里、田、花鳥風月である。それを失ったら何も出来なくなるんじゃないかというくらい日本人は創造的なインスピレーションを「自然界」に依存している。日本人は「無宗教」といわれるが、それは「自然」を崇拝しているからだ。そのレベルである。
自分たちの方が自然を感じ、また用いる能力が「上」なのに、なぜろくに自然も知らないイギリス人なんかの「ナチュラルガーデン」に憧れなきゃならないのか。

イギリス政府が自国の木綿売りたさにインドの木綿農家たちの手首をせっせと切り落としていた間も、アボリジニが静かに暮らしていた大陸に犯罪者をじゃんじゃん流入させてホロコースト以上の大虐殺をして白人の土地に変えていた間も、シナをアヘン漬けにしていたあいだも、我々日本人は自然を愛し、自然とともに生きていた。庶民はツバキや朝顔を咲かせて健気に喜んでいた。旅をし、俳句を詠んだ。
そもそもイングリッシュガーデンの発展は植民地なしには語れない。
外国のさまざまな珍しい植物を片っ端から集めてきて、それをイギリス本国内で栽培、交配、品種改良した。
「ガーデニングの国ですものね」と目を輝かせて憧れるのもいいが、歴史的事実としてその庭の根底には、アジア人をはじめとする有色人種の血と涙が流れていることを忘れてはいけない。
それでもイングリッシュガーデンの魅力は分かるから、こうやってわざわざ来た。来てやった。
僕は別にイギリス人がクソッタレ民族だからイングリッシュガーデンもクソだと言いたいわけではない。ただちょっと歴史の話をしたまでだ。
僕が鼻持ちならないのはあたかもイングリッシュガーデン(およびナチュラルガーデン)以外は自然を感じられないとでも言わんばかりの風潮である。イギリス人より真顔でそんなことを信じている日本人にこそ腹が立つ。同時に「見習うべきはイングリッシュガーデン」と提灯を持って女性たちにアホな幻想を抱かせた全ての園芸雑誌にも。
舶来物というだけで有り難がる、田舎根性丸出しの日本人ほど醜いものはない。

僕は人並みの感受性を備えているつもりだが、↓の風景を見て秋も冬も感じることは出来ない。

「6月○日です」と言っても通りそうである。
葉ボタンもストックもパンジーも排除しているからである。
結局、僕が季節を感じたのは片隅に1本だけ植えられたイチョウの木であった。
鮮やかに黄葉して、そこだけ明かりを灯したみたいであった。
なぜパンジーひとつ植えないのか。
そっちの方がずっと不自然である。

足早に一周して、シニアのおばさまたちと一緒に園をあとにした。

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2015.12.03 | | 行ってみた

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