園芸文学講座~庄野潤三「夕べの雲」~

「こんなに大きくなったのか」
庭で大浦がびっくりしたような声を立てた。居間の縁側のすぐ前、硝子戸すれすれのところに萩が生えている。
(中略)この萩の前に水道の蛇口があるので、大浦が庭樹に水をやるときは、萩の枝をちょっと手でよけるようにして、そこへ入り込まなければならない。
それくらいだから、萩が大きくなったことは、彼はとうに承知している―。

これは庄野潤三の「夕べの雲」の書き出しである。
主人公・大浦が、自分の植えた萩が庭の片隅で急成長しているのを見て驚き、独り言をいう。そして風が吹く度にこの萩が障子をなで、音を立てるので、その度に「どきんとする。」というエピソードが続く。小説は、この冒頭から受ける印象を少しも裏切ることなく、淡々と進んでゆく。誰も殺されないし、セックスもない。あるのは山の頂にポツンと建った家と庭、そしてそこに住む4人の家族のありふれた肖像である。

そんなドラマ性の極めて乏しい小説をなぜ紹介するのかというと、第一に、僕が好きな小説だから。第二に、このブログの趣旨に合っているから。つまり、園芸の場面が多いのである。たとえば―・・・

 

「うちのコスモス、駄目らしいわ」
がっかりした細君は、その前を通る度に、もう諦めたようなことをいっていた。ところが、このコスモスが咲き始めた。よその家のコスモスがそろそろ終わりかけた頃に、花ざかりになった。駄目だと思っていたのが咲いたので、種をまいた細君と正次郎は無論のこと、大浦の家族はみんな気をよくしたのであった。

 

霜が降りるようになったので、大浦の家では庭の浜木綿に霜よけをしてやった。日曜日の午前中に晴子がやった。(中略)
南だけ開けて、ビニールを垂らすようになっている。風が吹くといけないので、重石を三つ、用意してある。日中のあたたかい間は、ビニールをまくって、浜木綿を日なたぼっこさせる。日がかげる前に、もと通りにする。うっかりビニールをまくったままにしておくと、霜よけがありながら霜にあててしまう。自分の家の雨戸は締め忘れることがないのに、霜よけの覆いは取ったまま、一夜を明かす。
せっかく晴子がいい霜よけをしてくれたのに、大浦は三日か四日目にビニールをおろすのを忘れた。次の朝になって、庭を見て、分かった。
「ああ、あ」

 

「だからどうした?」と思うかもしれないが、僕はここまで何でもないのにとんでもない文章を書ける人を他に知らない。もし書店で文芸誌をめくって、「うちのコスモス駄目らしいわ」なんて台詞が目に入ったら、僕はきっとその先が知りたくてページをめくってしまうだろう。
その台詞の一体何がすごいのかというと、その言葉を一瞬目にとめただけで、そういう細君の表情、姿勢、声のトーン、そしてどこか頼りないコスモスの立ち姿などがぱっと目に浮かぶところだ。
まあ、自分が園芸をやっているからよりイメージしやすいというのはある。しかしうちには萩も浜木綿も植わっていないけれど、急成長した萩が風に吹かれて障子をこする音や、冬の透き通った朝日の中で小さく凍えるその花の姿を、昨日うちの庭で起こったことのように思い浮かべることが出来る。
ガーデナーであろうとなかろうと、家に庭があろうとなかろうと、関係ない。咲かないコスモスを見下ろして、ちょっとがっかりした女の横顔をイメージするのに、特別な能力も鋭敏な感受性も必要ない。

そういう場面を切り取って、混ざりっ気なしで提示できる作家はもういない。咲かないコスモス、下ろし忘れたマルチングシートに「人間」を見出す感性より、豊胸手術をしただの母親を刺しただのといった「特異な体験」をいかに「客観的に」「冷静に」描けるかで才能の善し悪しが決まるのが昨今の文芸界の傾向である。そしてそういう猫っかぶりの鼻持ちならない文章を「うまい文章」という。

 

江藤淳は「成熟と喪失」の中でこの「夕べの雲」を「恐怖小説」と評した。もちろん、雪に閉ざされたホテルで親父が斧を片手に暴れまわるようなそういう「恐怖」ではない。むしろ「不安」に近い。少しでも力を加えると、ばらばらと崩れ散ってしまいそうなもろさ、あやうさ、せつなさ。それはここでは説明しきれないので、興味を持った方は自分で読んで確かめてみるといい。

一見単なるほのぼのとした「園芸小説」のように見えて、得も知れないスリルに満ちた不思議な小説。それが「夕べの雲」である。


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2011.10.18 | |

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Author:yuhei
築30年の借家でホームオフィスをしながら理想の庭づくり、理想のインテリアを探求する日々の記録。
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