PURE SOUL

子供でもペットでも植物でも、何かの世話をするというのは、程度の差こそあれ、自分の中の何かを犠牲にすることである。「子供は親の夢を食う」と言われるように、育児というのは自分の自由な時間を犠牲しなければ成り立たない。
犬は散歩に連れて行かなければならないし猫を飼うなら壁やフローリングが傷だらけになってもニコニコしていられるキャパシティと「ネコ愛」がなければ耐えられまい。
もっとも、好きだから一緒に暮らすのであって、そういった世話や損害をマイナスに捉えるような人はそもそも動物を飼おうだなんて思わない。カワイイ愛犬や愛猫がそそうをしたくらいで、いちいち「自分を犠牲にしている・・・」なんて考えていたら気が滅入る。
愛があれば何でも許せるのである。
そこへ行くと植物は微妙だ。
返事もしないし、ボールを投げても取ってきてくれない。もちろん、じゃれ合ったりも出来ない。賢いとかアホとかいうものもない。イヌやネコは少なからず自分を頼ってくれている気がするが、植物とそんな主従関係(ないしは絆)を構築するのは多分、不可能だ。
そう考えると、植物を育てるという行為は、人間本位の、それも一方通行的な行為といえる。
見返りはない。
こちらがどんなに愛を注いでも、時間や労力を犠牲にしても、植物から感謝されることも認められることも愛されることもないのだ。
それでも人は庭に花を植える。木を植える。球根を埋める。
愛する対象や、自分だけを絶対的に愛してくれる相手を求めて動物に走る人はたくさんいるが、植物はそのどちらも叶えてはくれない。愛が有り余っていたって植物は受け皿にならないし、自分だけは絶対に裏切らないイエスマンでもない。むしろ裏切りまくる。傷ついたり後悔したり「なんでだ、なんでなんだ!」と頭を掻きむしりたくなるようなことばかりである。
最近もそんなことがあった。大事にしていたニューギニアインパチェンスが枯れたのだ。冬越しさせるために移植して、部屋の中に取り込んだものだ。ようやく下の方に新芽らしきものが見え、暖かくなったし、外に戻そうと思っていた矢先だったからショックは大きかった。
原因なんかない。真冬からずっと元気だったのが春になって生きるのを辞めた、それだけだ。
通路にたくさん花を咲かせていても、たった一株のニューギニアインパチェンスが枯れただけで、けっこうな喪失感を味わう。
そんな苦い思いをしてもなお花を咲かせようとするのだから、我ながら、園芸とはつくづくストイックな趣味だと思う。
そのうえ僕らホームガーデナーの「舞台」といったら日当たりの悪い住宅街の片隅だったり、ネコの額ほどもない狭小のスペースだったり、砕石だらけの地面だったりするのだ。
正直、やってらんねえと思うことのほうが多いはずなのだ。
はずなのに、匙を投げないのは、たった一株のニューギニアインパチェンスによって開けられた心の穴を、これまたたった一粒の「こぼれ種」から咲いたビオラが埋めてくれるから、ではないだろうか。
植物は、愛を与える対象でも、愛をくれる相手でもなく、

心に安らぎを与え、浄化させてくれる「物言わぬカウンセラー」なのだ。

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2016.03.30 | | 園芸コラム

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Author:yuhei
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