オフスプリングである。
大ヒット作「アメリカーナ」から14年、別に解散してたわけでも活動停止していたわけでもないのに「おかえり」感があるのは、アルバムの完成度が高いからか、それとも夏だからか。
僕にとって、オフスプリングは夏のバンドである。
あれは今世紀もあと少しで終わりという夏のある日。何気なくMTVをつけた僕の目に、耳に、オフスプリングが飛び込んできた。映っていたのは「キッズ・エイント・オールライト」のPV。鳥肌が立った。そのストレートでいながらメロディアスなサウンドは、リアルタイムの音楽にうんざりして過去のバンドばかり聴いていた僕に快哉を挙げさせた。思わず友人に「すげーバンドがいる」と電話したくらいである。
その後オフスプリングは「コンスピラシー・オブ・ワン」というアルバムを発表するが、これが不発に終わったこともあり失速。00年代に1枚のベストアルバムと三枚のアルバムを出したが、「まだやってんの」的な存在になりつつあるのは明らかだった。
僕自信、オフスプリングを忘れたわけではないが追いかけもしなかった。定期的に新曲をDLして聴いてはいたが、聴いたところで「良くも悪くもない」という感じで煮え切らない思いになるのが常だった。
パンクのようなシンプルな音楽を志向する場合、使うコードの数やリズム、テンポなどが自ずと制約されるため、どうしても似たような曲が多くなりがちだ。それでも大衆的成功を収めるには、パンクバンドとしての攻撃性を保ちつつ、いかに創意工夫を施して現代的なポップスに仕上げるか、が最大の課題になる。
オフスプリングがその課題を完全に克服したのが「アメリカーナ」だ。「ポップス性」と「攻撃性」という一見相容れないように思える二つの要素を、彼らはコミカルなビデオやナレーション、歌詞といった「ユーモア」を間に挟むことによって中和し、独自の世界観を作り上げた。
しかし最近のオフスプリングは意図してその方法論を避けているようなところがあった。原点回帰なのかそれとも新境地を開拓するつもりだったのか分からないが、ただの「パクリ」にしか聴こえない曲もあったりして、どこか空回りしている感があった。
しかし今回の「デイズ・ゴー・バイ」は違う。
「アメリカーナ」ほど粒ぞろいのアルバムではないが、攻撃的な面とソフトでキャッチーな面が程良く混ざり合っており、そういう意味では「オフスプリングらしい」アルバムになっている。どの曲も完成度が高く、よくプロデュースされている。過去の名曲からの「拝借」も「引用」のレベルにとどまっていてオリジナリティを損ねるほどではないし、ヴォーカルのデクスターの声も衰えていない。
個人的には超ポップな⑥「クルージング・カリフォルニア」が特にお気に入りだが、①の「ザ・フューチャー・イズ・ナウ」を聴いて「復活」という二文字が頭に浮かんだ。こういう<気迫><危機感>がにじみ出てくるような曲を聴くのは久しぶりだ。
僕がいま17歳で、かつてと同じようにリアルタイムの音楽にウンザリしていたら、このアルバムを買うなりフリーDLする可能性は高い。そして「アメリカーナ」を知り、ぶっ飛ぶ。
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2012.08.29 |
| 音楽
もうすぐ9月だというのに一向に涼しくならない。自分の子供時代を思い返すと、夏休みが終わる頃というのは己のテンションがクールダウンするのと比例して涼しく、2学期が始まるやまた暑さがぶり返して避難訓練中に誰かがぶっ倒れる。。。そんな具合だった気がする。
だから「残暑」という言葉もしっくりきたし、子供ながらに残暑とは「これを乗り越えれば涼しくなる」ではなく、夏の名残を惜しむ暑さだと感じていた。しかし近年、「残暑」という言葉が意味を成さなくなってきているような気がしてならない。暑いままだからである。
もうすぐ8月も終わり、本来なら今日のこの暑さは「残暑」と呼ぶべきものだが、とてもじゃないが夏の名残を惜しむとか、そんな日本的感傷に浸る余裕はない。バリバリ全快、庭が焦げ付きそうなくらいの太陽光線。要するにかつての「残暑」と現代の「残暑」では、質が変わってきているのだ。
民族性とは、少なからず地理や気候からの影響によって形成されるものだといわれる。もしそうだとすれば、この「長い夏」によって日本人の民族性にも変化が現れるかもしれない。なんてことを考える。
もっとも、温暖化の影響を受けるのは日本だけではないので、日本人だけが著しく変化するとは思わないけれども、日本人は昔から季節の移り変わりに敏感で、その繊細な感性によって和歌や錦絵~スタジオジブリに至るまでの「文化」を築いてきた。自然を使い捨ての電池か何かとしか考えられなかった西洋人とは違い、日本人は自然を使いつつ、畏れ、そして守ってきた民族である。
海外に行くと、禿げ山の多さに驚く。岩山ではない。土がむきだしになっている山である。かつては木が生い茂り、水が流れていたであろう山。いつからその姿なのか不明だが、いずれにせよ人間が伐採し、掘削しまくったなれの果てであることは疑いない。
そんな禿げ山、日本では探すほうが難しい。日本の山はどれもはち切れんばかりにモクモクしている。日本人に西洋人ほどの人間中心主義が蔓延していなかったのに加えて、日本の自然が、恐らく強すぎたせいだろう。禿げ山にしたくても出来ないのだ。
お陰さまで現在日本の森林率は68.5%である。これは先進国の中ではスウェーデン、フィンランドに次ぐ第三位である。「なんだ、3位か」と思うのは大間違いである。なぜなら上位二ヶ国の人口は一千万にも満たない。それに比べて1億2千万の人口を有する日本が68.5%もの森林を保有していることは驚異的である。
それほどまでに自然と寄り添って生きている我々日本人が、この猛烈な、そして長い夏によって多少気が短くなったとしても、仕方のないことである。領有権を守るために軍艦を出したり、彼の国の音楽やドラマに対する風当たりが強くなったとしても、それは仕方のないことである。
日本は暑く、日本人は変わりつつあるのだから。
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2012.08.26 |
| 時事問題
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