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Author:yuhei
築30年の借家でホームオフィスをしながら理想の庭づくり、理想のインテリアを探求する日々の記録。
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ノー・フューチャーなスカイツリー

自宅から車で東京へ出る時、よく尾久橋通りという通りを走る。日暮里を過ぎ、クランクを曲がると、車線が増え、視界がぱっと開ける。そして正面のビルの谷間に、青白いスカイツリーが現れる。
いつ見ても、何も思わない。「高い」とすら思わない。気付かない時すらある。普通、巨大建造物を目にすると、「わあ」と顔がほころんだり「おお」と感心したりするものである。童心に帰るというのか、そこには無邪気な歓びがある。建物でなくとも、気球船とか入道雲とか樹齢数百年の銀杏でもいい。見上げることに心地よさを感じるだろう。僕は別に浦和レッズのファンではないが、近所にあるスタジアムの脇を自転車で通り抜ける度に、何となく心の中が広くなるのを感じる。
「大きいもの」というのは、人に畏れを抱かせるのと同時に、癒しもする。包み込む。スカイツリーにはそれがない。

僕が通っていた大学は都心にあったので、屋上から東京タワーが見えた。見えると言っても乱立する高層ビルにまぎれて、目を凝らさなければ分からない程度だったが、それでも見えることは見えた。見つかると、「あったあった」となぜかほっとした。それから適当な場所に座り込んであんぱんをかじり、コーヒーを飲み、一服する。期待外れの東京で、タワーだけは僕の想像通りの姿でそこにあった。
巨大建造物というのはかつては富と権力の象徴であり、現代では豊かさの象徴だが、スカイツリーはそのどちらでもない。豊かだからこそ作れたのは間違いないが、技術的・経済的にそれを作れることと、象徴になり得るかは全く別問題である。
東京タワーは前田久吉という大阪の新聞王が中心になってたったの一年で完成させた電波塔だが、高度経済成長という時代と、その時代に生きる人の精神を内包していた。すなわち、「世界の日本へ」という共通の意識である。人々はエッフェル塔より20メートルも高い「東京タワー」を見上げては新しい日本を感じ、また、より豊かな未来を夢見た。

しかしスカイツリーを見て新しい時代の訪れを感じる人はいない。夢も見ない。スカイツリーに一つでも「新しさ」があるとしたら、それは「消費空間」としての新しさだけである。僕がスカイツリーに何も感じなかったのは、色や形といった意匠的な要因もさることながら、建設段階からすでに単なる「消費スポット」でしかないのが(メディア等を通して)透けて見えていたからだ。要するに地上634メートルの展望台が付いているショッピングモール。そんなものに夢を感じたり、見上げる心地よさを感じろという方が無理である。
しかしそんなへそ曲がりな人間は僕ぐらいらしく、普通の国民には受けているようである。訪れる人たちの姿を見ていると、なるほど、タワーの「ショッピングモール化」という狙いは、まさに現代的であり、時代の要請にもかなっているんだなと思い知らされる。そういう意味で言えば、スカイツリーは非常に「象徴」的なタワーなのかもしれない。
ショッピングに夢を見る、ノーフューチャーな時代の。


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時事問題 | 20:20:03