希望の歌

亡命
1・政治的弾圧や思想の相違、宗教・人種的な理由による迫害を避けるために自国から外国へ逃れること。
2・戸籍を抜けて姿をくらますこと(Yahoo!辞書より)

 

最近、この言葉がよく頭に浮かぶ。亡命・・・。もちろん本気ではなく、あくまで空想として、僕はこの国を捨てることを考える。行くならどこがいいか、アメリカ?イギリス?イタリア?いやいっそのことアラスカのダッチハーバーで明太子用のスケトウダラ漁でもやって暮らそうか・・・。

 

紛争や戦争で国外退避を余儀なくされた場合を除いて、人が祖国を捨てようとするとき、そこには他人には想像もつかないほどの絶望と悲しみが渦巻いていると僕は思う。何かをきっかけに自分と祖国とを繋ぐ「絆」のようなものがプツリと切れ、国の未来に一縷の希望をすら見いだせなくなったとき、人は祖国を捨てる。
画家の藤田嗣治しかり、作家のソルジェニーツィンしかり、映画監督のアンドレイ・タルコフスキーしかり・・・・。
しかし彼らの作品を見たり読んだりしても、国を失うというのがどういうことなのか、僕にはよくわらなかった。その悲しみや祖国への失望・怒りは理解できても、そこまで行ってしまうということに、僕は正直違和感さえ覚えたものだ。藤田など、最初は軽い軽蔑さえ抱いた。
しかし今、僕には彼らの気持ちがわかる。たとえ彼らの百万分の一だとしても、自分の中から祖国が消えていくのを、祖国と自分の距離がどんどん開いていくのを、いま、僕はひしひしと感じている。「ああ、こうやって人は祖国を見限るのだな」という実感を持てるようになった。
管直人に感謝することがあるとすれば、それは、国を失うということがどういうことか教えてくれた、ということだ。

 

前向きに生きる努力はしている。こんな暗黒時代でも、身の回りには案外ほっとするような言葉や<救いのメッセージ>が隠されているもので、それらが僕の心で小さな「希望」の芽を生やす。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

-村上春樹「風の歌を聴け」

「今朝ダートフォード駅で、小学校のとき知り合いだった奴が声をかけてきた。チャック・ベリーのレコード全部を持っていた。ミック・ジャガーって奴だ」
-キース・リチャード自伝「LIFE」の一文

 

look at the bright side (物事の明るい面を見ろ)
-うちの奥さんが着ているTシャツにプリントされていた文字

 

bright side という言葉が僕は好きだ。これはヴァン・モリソンの「bright side of the road」という曲による。「bright side of the road」・・・直訳すると「道の明るい側面」

 

通りの暗い端から 日向へ
そこで僕たちは恋人に戻る
一緒に来ておくれよ
二人でこの日向道を歩いてくれないか
僕たちがいまいるこの世界
僕は時々何が何だか分からなくなるんだ
だって、あまりに時間が早く過ぎてゆくから
ホント、瞬く間にね

 

でも君となら楽しめると思うんだ
君が僕の歌の源なんだ
だから通りの暗い影から日向へ行こうよ
(オリジナルの意訳です)

 

たった一人のファシストの白痴政策によって日本はもう日陰どころか暗黒の底に叩き込まれてしまったが、この歌を聞けば少しは楽になる。いつか日向へ行けると信じてこの絶望を乗り切ろう。



simpsons_ba

2011.05.29 | | 未分類(日常、随筆)

タネと著作権

 
オクラとトウモロコシの種が発芽した。個人的には植物の一生の中で最も生命力を感じる瞬間だ。思わず声援を送りたくなる。
ところで、種には「固定種」と「F1種」というのがあるのをご存知だろうか?
僕も最近知ったのだが、「固定種」というのは、その地域や気候に逆らわず、何世代にもわたって選抜・淘汰された野菜から採れた、遺伝的に安定したタネのことで、このタネで育てると、スーパーの野菜より見栄えや大きさは劣るものの、味の面では比較にならないくらい美味しいものができる(らしい)。なんでも昭和30年代ぐらいまではこの「固定種」での栽培が主流だったらしく、高齢者がよく「今の野菜なんか食えたものじゃない」と愚痴るのは、彼らが固定種で作られた「本当に美味しい野菜」を食べて育ったから。つまり「古き良きタネ」。
一方で「F1種」というのは、海外のストロングな品種と日本の貧弱な品種を交配させて作られたタネのこと。味こそ固定種に劣るものの、生育が早いうえに病気に強く、見栄えも良いため、今ではスーパー等に出回っている野菜のほぼ全てがこの「交配種」によって作られた野菜になっている。もちろん上の写真のオクラもトウモロコシも「F1種」。
ただし
この「F1種」、別名「一代雑種」といい、この種から苗に育て、そこから採取した種をまいても、同じものは二度と出来ないようになっている。一代限りだから、今年も同じ野菜を、と思ったら、また同じ種を買わなければならない。僕のように個人で家庭菜園をやる分にはいいが、農業を生業にしている人間からするとたまったものではない。しかしこれがいまの「常識」である。

 

固定種にこだわった種を販売している「野口種苗研究所」というタネ屋さんのHPには、固定種栽培の難しさと、F1種を売って暴利をむさぼる種苗メーカーの手口が赤裸々に綴られている。以下引用。

交配種の悪い点は、まず第一に種苗の供給をメーカーに握られてしまうこと。
数年前マスコミでさかんに言われた『タネを制する者は、世界を制す』という問題ですね。そこから敷衍(ふえん)して、メーカー言いなりの価格で買わざるを得ないこと。
つまり、非常に高価で、しかも毎年買わなければならない。(もちろん、メーカーや販売店にとっては、最大の利点です)
また、メーカーが海外産地の技術不足などで、交配ミスを引き起こしたりした場合、全部似ても似つかない野菜になってしまって、産地が壊滅的な打撃を受けることもあります。
(こうしたことを防ぐため、あらかじめ種子生産後一年間試験栽培をして、試験済種子=Tested Seed=として、もっと高く売ろう。タネの寿命も短くなるから一石二鳥…というメーカーの動きもあります。これは、もしかして実現済みかも知れません)

 

高度経済成長を受けて、より効率的でより合理的な野菜の生産システムの構築を模索していた国(農林省)と、タネの交配技術を持っていた種苗メーカーの利害が一致し、官・民主導による「F1種」栽培が始動・推進された。その結果、古来から食べられていた純日本産の野菜が失われ、産地は日本でも戦後まで誰一人食べたことの無かった「マッチョきゅうり」や「マッチョなす」や「マッチョ長ねぎ」が食卓を飾ることになった。
・・・というのは僕の勝手な推論だが、まさか種苗業界にまで電波利権(総務省とNHK)や原発利権(経産省と東電)のようなどろどろした既得権益があるとは知らなかった。園芸とか苗って、クリーンなイメージだからそう言う目で見たことがなかった。見ようとも思わない。
それにしても、この話、何かに似ていないか?
「交配種」を「著作権保護法」に置き換えてみると・・・。

 

著作権保護法の悪い点は、まず第一にコンテンツの供給をメーカーに握られてしまうこと。数年前マスコミでさかんに言われた『著作権を制する者は、世界を制す』という問題ですね。そこから敷衍(ふえん)して、メーカー言いなりの価格で買わざるを得ないこと。
つまり、非常に高価で、しかも毎回買わなければならない。(もちろん、メーカーや販売店にとっては、最大の利点です)
また、メーカーが海外工場の技術不足などでミスを引き起こしたりした場合、YOUTUBE等動画投稿サイトにコンテンツが漏洩してしまって、テレビ局が壊滅的な打撃を受けることもあります。
(こうしたことを防ぐため、あらかじめD-CASSカード機能などを搭載させて、地上波デジタル=NHKオンデマンド=として、もっと高く売ろう。現在放送中の番組の宣伝にもなるし一石二鳥…というメーカーの動きもあります。これは、もしかして実現済みかも知れません)

 

実現済みですよ。
う~ん・・・。こう考えるとつくづく僕たちは見えない何かに操られ、かすめ取られ、不自由を余儀なくされているような気がする。

2011.05.23 | | ガーデニング

ぼくの小説離れ

最近、小説をあまり読まなくなった。代わりに、新書や伝記、ノンフィクション、それから週刊誌を多く読むようになった。
最近買った小説はロアルド・ダールの短編集「あなたに似た人」と、E・ブロンテの「嵐が丘」の二冊のみ。なぜこの二冊なのか自分でもよくわからないが、とにかく「活字離れ」ならぬ「小説離れ」が僕の中で進行中のようだ。
以前は週に1冊くらいは小説を読んでいた。二日二晩「赤と黒」を読みふけっていたり、徹夜して「カラマーゾフ」と格闘したり、歯医者にボネガットを持参して麻酔を打たれながら「猫のゆりかご」を読んだりしていた。頭が悪いから放っておくと内容をほとんど忘れてしまうのだが、それでもまあ、読むことは読んでいた。それが今じゃさっぱり、想像の羽を広げて架空の世界を飛び回ることもなく、名台詞に線を引いたり、絶妙な比喩に膝を打ったりすることもなくなった。
どうしてこうなっちゃったのか自分なりに分析してみると・・・多分、現実社会に不満が多すぎてそれどころではないからだ、という結論に達した。虚構の世界にどっぷり浸かるには、今、この国には問題が多すぎるのだ。僕にとっては。

では僕をフィクションから遠ざけている「問題」とは何か。それは、この国の腐敗である。
政府は平気で嘘つき、マスコミは嘘を見て見ぬ振りして垂れ流し、国民はそれを信じる。そうやって意味不明なコンセンサスと世論が形成され、「地デジ」のような誰も得をしない(家電メーカーでさえ得をしない!)政策が推進され、明らかに親の遊ぶ金にしかならない「子ども手当」などというボーナスがばらまかれ、嫌悪感だけで一人のベンチャー企業家に2年の実刑が言い渡され、挙げ句の果てには情だけでしかものを考えられない馬鹿国民によって増税がなされようとしている。こういう状況への不満と怒り、そして真実への飢餓感が、僕を文学から新書やブックレットへ向かわせ、挙げ句の果てには「週刊現代」やら「週刊ポスト」やらといったこれまで「低俗」と軽蔑していた週刊誌にまで走らせるのである。

当然だが、「三四郎」の中には「東電救済スキーム」の矛盾について書いている箇所はない。スティーヴン・キングは色々「ありえねーっ!」な小説を書いているけれど、さすがに情報を隠蔽していたずらに住民を被爆させておきながら自分は権力にしがみつこうとする宰相の話など書いていない。ましてや「人の悪口は言わない。時事的な問題は避ける」をモットーにエッセイを書いている村上春樹など論外。
もちろん漱石には漱石の価値が他にあり、キングにはキングの魅力がある。なにも村上春樹が口汚く管直人を批判しないからといって、彼の作家としての力量に疑問符が付くわけではない。ただ、今の僕は「日本で一番おいしいウーロン茶を目指して書いた」とかいう村上春樹の文章を読む暇があったら、官民挙げての地デジ推進の内幕を暴いた本を読みたい。週刊誌の「原発マネーに群がった政治家、学者、マスコミ」という記事を読みたい。ニコニコ動画で自由報道協会の会見を観たい。もうこれ以上欺されたくないのだ。政府に。メディアに。


小説は心を豊かにする。教養も身につく。ユーモアも解せるようになる。人間に対する理解も深まる。国家権力の恐ろしさや大衆の愚かさを描いたものも数限りなくある。リテラシーも身につき、自分で物事を考えられるようにもなるだろう。だから決して小説を読むことは無駄ではない。それに、こういうときだからこそ一歩下がって小説世界に身をゆだね、頭を冷やし、心を落ち着かせる、というのも一つの読み方だとは思う。出来ることなら僕だってそうしたい。正直言うと、日に日に活字の海を漂うあの感じが恋しくなってきている。
その恋しさが押さえきれなくなって・・・というわけでもないが、昨日、書店で久しぶりに小説を買ってしまった。ポール・オースターの「ミスター・ヴァーディゴ」という本だ。半ページ読んで僕の中で封印されていた何かが動き出し、抗しきれずにレジに直行した。面白い。「偶然の音楽」で「オースターも終わったな」と思ってしばらく距離を置いていたのだが、これはイケる。まだ半分も読んでいないので何とも言えないが(オースターは後半で息切れする嫌いがあるのだ)、久しぶりに文学のパワーをもらった気がした。村上龍がこの間何かのインタビューで「僕は若い頃谷崎とか大江健三郎とか中上健次とか読んで、『ああ、これで明日も生きていけるな』って思ったもんなんですよ」と言っていたのを思い出す。
しかしパワーはもらっても、残念ながら「これで明日も生きていける」というほどではない。面白いが、救いにまではならない。

民主党政権が続くかぎり、僕のこの「小説離れ」は収まりそうにない。


hikaru_ba

2011.05.20 | |

はい、ロスト・ジェネレーションです

今週の「週刊現代」(5/21日号)に、日本総研理事長の寺島実朗と評論家の佐高信の対談が載っている。その中で寺島氏が、現政権の無能を<世代的な問題>と批判していて、それが僕には新鮮だった。寺島氏は管直人や鳩山前首相、仙谷由人元官房長官と同学年らしく、世代でくくるとガチ「団塊の世代」。この国難にあって、いま「団塊の世代と呼ばれている人間の真価が問われている。もっと言えば、戦後なるものの本質が問われている」と同氏は主張する一方で、これが今のところ全く期待出来ないことを嘆く。以下引用。

 

「菅さんというのは、戦後日本人のひとつのタイプを象徴しています。戦後民主主義の中で育ち、市民運動とかリベラルといったものを吸収してきた。そして、その時代その時代の注目されるテーマ、薬害エイズ問題とか諫早湾の干拓とか、そうした市民受けするテーマに乗っかって「皆さん、そう思いませんか」とメッセージを出す。菅さんのような周囲の人を駆り立てる側にいた人物は、組織の下支え経験や問題解決のためのプロセスに呻吟することもなく、薄っぺらな戦後なるものを体にあふれさせている。そんな風に団塊の世代が終わってしまうのかどうか。もしかすると、この世代は本当の危機に直面したときに解決に立ち向かう力がないことを露呈しているんじゃないか、というのが現政権に対する印象なんです」

 

たとえ同世代であっても、普通なら「俺はあんな連中とは違う」と一蹴したくなるところを、寺島氏は「私自身も他人事ではない」と反省し、潔く「この世代は本当の危機に直面したときに解決に立ち向かう力がないことを露呈しているんじゃないか」と認めてしまう。自分の世代を批判するということは、すなわち自分を否定することにもつながりかねないのに、敢てそれをする寺島氏の潔さに男気のようなものを感じる。対談相手の佐高信も「あんな馬鹿と一緒にするなよ」と言ってもよさそうなのにぐっとこらえて、自身も市民運動に関わった経験から「市民運動は軽い」とプチ反省。オトナである。僕なら「冗談じゃねえよ」って言うね。

それにしても、民主党上層部の無能さを「世代」によって分析している人を見たのは初めてである。やはり、あまりにも無能すぎて「あんなやつを団塊の世代の代表みたいに言うのは、さすがに他の団塊の人に失礼だろう」という遠慮が他の世代にもあるからだろうか。

 

ちなみに僕は1980年代の前半生まれで、世代名としては「第三期氷河期世代」とか「ロストジェネレーション」とかいうらしい。でもど真ん中ではなく、なんか申し訳程度に入っている感じで、じゃあ「ゆとり世代」かというとそこまで若くもなく、非常に中途半端な位置にいる。かといっていくらガチでも「酒鬼薔薇世代」ってのもなあ・・・・。
まあ、「ロストジェネレーション」(失われた世代)というのは文学的でいいなと思う。もちろん僕たちの世代にはフィッツジェラルドやヘミングウェイのような代弁者はいない。でも、呼称としてはしっくり来る。「うん、失われてたよな」と思う。なにが?って、青春がさ。「今」がさ。
新しいもの、面白いものがまるでなく、目に映るもの全てが既視感に溢れていた。キラキラ光って見えたものは、手垢の付いた中古レコードと昔の映画。「今」にあまりにも魅力がないから、僕は「過去」に埋没しながら青春を送った。そしてこれは僕だけに限ったことではないと思う。世の中全体が「再生産」に走っていたのだから。
こういうある意味「ハングリー」な空気を味わった世代が、あと二十年後三十年後に管直人のような「ガレキ」を輩出するか、それとも有能な経営者や指導者を輩出するか、楽しみではある。
自信ないけど僕もその一人として頑張ろう。



simpsons_ba

2011.05.17 | | 政治

バラたち

3月に某激安花苗店で二束三文の値でゲットしたアンジェラが一番花を付けた。買った当初はアブラムシまみれでどうなるかと思っていたけど、植栽時に施したオルトラン(農薬)の効果が出たのか、いまのところアブラムシはほぼ皆無。
本当は定植後一年は花を咲かせてはいけないらしいのだが、好奇心を押さえられず咲くに任せた。つぼみはオレンジ色なのに、咲いてみると意外と白い。ふわふわしていて、キュートだ。こんな可愛い花がポポポポ~ンとあっちこっちから出てくるのか。考えただけでワクワクする。でも今年はお預け。心を鬼にして剪定します。
最初はこんなでした。↓二ヶ月でわさわさに。

 

同じ日に買ったほかのバラたちもぐんぐん伸びてきた。
缶ジュースと同じ値段だったピエール・ド・ロンサール。鉢植えながら順調に成長し、よく見ると先端につぼみが。

  

つるアイスバーグも最初はつるっぱげだったけど今はやる気満々。これも駄菓子のような値段で、しかも半日影でも大丈夫!というので「そっかー、じゃあ裏庭でいいや」とかなりぞいんざいな扱いだったにもかかわらず、頑張ってくれてます。非常に頭がよく、支柱を立ててやると「こっちに行けばいいのね」って感じで自分からするする伸びていく。名前に「つる」と付いているだけはある。

 

さて、「安かろう悪かろう」で買った上のバラたちとは違い、わざわざ栃木まで行って大枚(?)はたいて買ったグラハム・トーマス先生。(うちでは大御所扱いなので「先生」と呼んでます。実際グラハム・トーマスも先生だし)
3月の時点で一番日当たりの良かった玄関の脇に植えたのだが、これが痛恨のミステイクだったことが春になって分った。太陽の角度が変わって、3月の時点では一番条件の良かったそこが、今や半日影に。

 

おまけに家の壁がすぐ後ろにあり、頭上には庇があるので雨が当たらない。それなのに「地植えの場合は定植時にたっぷり水をやるのでその後一ヶ月は水やりの必要なし」というマニュアルを信じて放置していたらまんまと水切れを起こし、一時は瀕死の状態になった。さすがにこりゃヤバイと急遽水をやったら少し持ち直した。だがまだまだ予断を許さぬ状態。他のバラがぐんぐん成長しているもんだから余計焦る。雨って大事なんだなあと痛感。
新苗が出回ってますが、これから植える皆さんはくれぐれも「水やり」には注意して下さい。


simpsons_ba2

2011.05.12 | | ガーデニング

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プロフィール

祐平

Author:祐平
築30年の借家でホームオフィスをしながら理想の庭づくり、理想のインテリアを探求する日々の記録。
「一般教養としてのロック史」管理人。興味のある方は覗いてみてください。ネットショップも地味に
コメ欄クローズ中ですので、現在お声はメールでお願いしております。
⇒ mail@brightside82.com

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