今週の「週刊ポスト」(5/13日号)が熱い。同誌は「徹底追求:本誌スクープに慌てふためく『政・官・報トライアングル』ついに『国民の命』まで権力の踏み台に!管官邸が隠した『被爆データ6500枚』」と銘打って現政権の秘密主義、結論ありきの増税論議の裏側、大手新聞社と震災復興会議との癒着などをスクープ。被爆データ6500枚とは、「緊急時迅速放射能影響予測システム」(通称「SPEEDI」)が地震発生から4月20日までの間に集めた放射線量のデータのことだ。政府はこのデータを持っていながら公表せず、おまけに同じデータを受信していた福島県に対しても「公表するな」と圧力を掛けていたという。
その結果は周知の通りである。原発周辺の住民を不安と混乱の渦にたたき込み、無用に多くの放射線を浴びさせた。3月18日の時点で飯館村では30マイクロシーベルトという高い数値の放射線が観測されていたことも分かった。ポストは「住民たちの一ヶ月の被爆は、明らかに政治犯罪により引き起こされた」と危険を承知で安全性を強調した政府を舌鋒鋭く糾弾している。
また、電力不足による「真夏の大停電」説も、東電救済のために国家および大手マスコミが仕掛ける「脅し」だと言う。資源エネルギー庁作成の「東京電力の設備出力の復興動向」という極秘資料には、7月末の東電の供給能力が「4650万キロワット」と記されており、これが「真夏の大停電」が起きる根拠にされているのだが、「ポスト」の調査によって、この資料には東電管内全体で1050万キロワットの発電量を持つ揚水発電が全く含まれず、停止中の火力発電所分の電力量も記載されていなかったことも明らかになった。このスクープを受けて、政府は大慌てで資料を訂正、揚水発電量分と火力の分を上乗せして公表したというのだから呆れる。(結果総供給量は5200万キロワットになった)
そして先日、政府は東電と保安員と三者揃い踏みで会見を行い、細野豪志首相補佐官が「これからは原則、全ての情報を公開する」と宣言。情報を一元化し、問題の「
その声がとうとう無視できないほど高まってきたからか、それとも国際的な要求があってかしらないが、いずれにせよ自分たちが国民の生命を左右する重大な情報を隠蔽していたこと、圧力を掛けて情報を統制していたことを認めたことに変わりはない。
であるならば、危険性を承知していながら何ら手を打たず、安全ですと言い続け住民を被爆させた菅直人、枝野官房長官らにも原発周辺の住民に土下座してもらわなければなるまい。本当は土下座などで済む問題ではないのだが、東電の社長が土下座してこの二人が何の非難も浴びず、恥も掻かず、頭も下げず、ゆうゆうと権力の座に居座っていると思うと、僕ははらわたが煮えくりかえって夜もおちおち眠れない。
それにしても、どうして国民はこんなペテン集団に権力を預けてしてしまったのか。どうして「欺されるな!」という声に耳を貸さなかったのか。どうして常識を働かさなかったのか。どうして「財源は確保できる」などという大ボラを鵜呑みにし、どうして明らかに「バラ撒き」と分かりきっている政策に期待などしたのか。今さら嘆いても仕方のないことだが、それでも言わずにはおれない。
僕は今、心の底から「権力」というものの恐ろしさを痛感している。恐らくナチスに投票したドイツ国民もある所からこのような恐怖を感じていたに違いない。まさかあのエネルギッシュで自信に満ちた小男が民主主義をかなぐり捨てて独裁体制を敷き、挙げ句の果てに大量殺戮をはじめるなどとは夢にも思わなかったのだろう。「大げさな」と思われるかもしれないが、日本も今、当時のドイツと似たような状況に置かれていると僕は思う。なぜなら、国民は正確な情報を与えてもらえず、無実の人は見殺しにされ、これだけ非難され、無能呼ばわりされても最高責任者は辞める気がないどころか、自分は「原発に相当詳しい」と本気で信じているような狂人なのだ。もし僕の言っていることが間違っているのなら誰かあの男の弁護をして見せてくれ。
いつだったかこの男は「支持率が1パーセントになっても辞めない」とのたまっていたが、まさか本気で言っているとは思わなかった。しかしこの状況を見ると、それが嘘でも冗談でもなく、本気だったらしい。背筋が凍る。「石にしがみついてでも」この男は権力を手放さないつもりなのだ。もう病気である。先日来日したヒラリー・クリントンの真の目的は、実は「菅直人の精神状態がマトモかどうか確かめるためだった」と政府内部でささやかれるのも頷ける。
一体この男がいつ総理の座を降りるのか知らないが、国民は肝に銘じて置くべきだろう。狂人がハサミを持ったら、最初に犠牲になるのはハサミを持たせた者である。

4月の下旬、岩手、宮城、福島を車で回った。仕事といえば仕事だが、違うと言えば違う。その辺は複雑なので省く。とにかく僕は盛岡、宮城、福島の三県に行くことになった。
東北自動車道~盛岡
東北自動車道は、想像していたよりずっと走りやすかった。確かに白河を過ぎたあたりから急に亀裂や段差が目立ちはじめ、油断していると
盛岡に着いたのは夜の七時頃だった。街は、客が来たことにも気付かずにあぐらを掻いてラーメンをすする友人の部屋のように明るかった。駅前のホテルにチェックインして市街地を歩いてみるも、印象は変わらない。パチンコ屋は煌々と明かりを照らし、「ミスタードナツ」では若者たちが列を作っていた。駅ビルの地下街に行くとここにも行列。回転寿司の順番待ちらしく、出張中らしきサラリーマンや家族連れで賑わっている。僕は盛岡市民ではないのでこれを盛岡の「日常」と言っていいのか分からないが、僕が見る限り、いつもと変わらぬ日曜の夜、という感じだった。そういえば歌手のさだまさしが「盛岡の友人に電話して『何かメッセージはあるか』って訊いたら『東京の人、元気出して下さい!』って言われた」と何かのテレビ番組で言っていたが、これなら僕だってそう言うだろう。
しかしそんな盛岡の「現状」を目の当たりにして、震災以降ずっと感じていた、ある種の疚しさのようなものが両肩からすーっと抜けていくのを感じた。「百聞は一見にしかず」とはこのことだ。
翌朝、盛岡での用事を済ませると東北道に乗って仙台へ。大通りを進むと、仙台駅前に出る。やはりダメージがあったのか、仙台駅は工事用のネットで覆われ、あちこちに重機やトラックが置かれていた。傷ついた駅を見上げていると、ある映像が頭をよぎった。仙台駅の地震発生時の映像だ。どこかの高層ビルの屋上に設置したカメラだったのだろう、地震発生と同時に横に大きくぶれだし、眼下の建物の屋上で、駐車中の車が前後に動き出したのだ。もちろん人は乗っていない。揺れで勝手に動いているのだ。動く、というより滑るという感じだったが、あれにはぞっとした。それほどの揺れを受けてよく倒壊せずに残っていたものである。どこかの怪しげな外資系スーパーとは大違いだ。
駅から通りに目を落とすと、そこにあるのは活況である。平日にもかかわらず通りは人で賑わい、飲食店の前には列が出来ている。若い女の子たちが春の日を掌で遮りながら早足で横断歩道を渡ってゆく。背広を肩に掛けたサラリーマンが颯爽と「吉野家」に入ってゆく。実際、駅以外には目立った損傷はないようだった。もしかしたら駅周辺の物々しさも単なる拡張工事の為かも知れない。そうだとしても、この日の仙台は心なしか輝いて見えた。「復興熱」という言葉がふさわしいかどうか知らないが、ある種の生命感のようなものが通りからみなぎっていた。
その後、野暮用で宮城県庁に行った。用が済んだあと、担当の男性職員に「仙台も大分被災したと思ってましたが」と言うと、その職員は書類を机の上でとんとんやりながら「この辺はマシですが、海の方は本当にひどいですよ」と言った。「何もかも流されちゃってるところもあります」
それから僕がおっかなびっくり「見に行ったりしても大丈夫ですかね」と訊ねると、彼は顔を上げて「行けるなら、見といた方がいいです」
と、きっぱり言った。
なら見に行こう。
僕は県庁をあとにし、国道45号線に向けて車を走らせた。
国道45号線 多賀城市~松島
かつて「仙台街道」と呼ばれたこの道は宮城野区を通り、多賀城市、塩竃、松島、そして石巻まで続いている。石巻にはこのブログでも紹介した「石ノ森章太郎萬画館」があり、街には石ノ森作品のキャラクター像が点在している。それらがどうなっているのか、この目で見たかった。特に「さるとびエッちゃん」の「エッちゃん」像が無事かどうか確かめたい。僕は石巻まで行くことにした。
海に向けて車を進めるうちに、少しずつ、ブルーシートを被った家が目立ちはじめる。瓦が落ちたのだ。信号待ちをしていると、ふと見上げた高層マンションの外壁に亀裂が走っているのが目に入ったりする。そういう光景が、道を進むほどに増えてゆく。動機がして、ハンドルを握る手に汗がにじむ。カーステの音も耳に入らない。そのとき、一軒の飲食店が目の端をかすった。看板が斜めに傾き、駐車場のアスファルトが芝生のようにえぐれている。
宮城県庁を出て30分。そこはもう「被災地」だった。信号は消え、歩道には津波に運ばれてきた漂着物がうずたかく積まれていた。冷蔵庫、板きれ、ドラム缶、ロッカー、テーブル、看板・・・。それから半透明の袋に詰められた生活ゴミ。道路は砂っぽく、風が吹くと濃い潮の匂いがした。しかし海は見えない。海があるのは地図で見て知ってはいるものの、距離感が全くつかめない。というのも、宮城野区から多賀城市を走る国道45号線は、雑多なチェーン店が続く典型的な地方都市のバイパスで、部外者の感覚からすると海から相当離れているような印象を受ける。
確かに今回の津波は桁外れの高さだったかも知れない。が、それでも「ローソン」やら「ステーキの宮」やら「マクドナルド」やら「アベイル」やら「しまむら」やら「ガリバー」やら「エネオス」が乱立している国道に津波が押し寄せると誰が思うだろう??
それらは危険への距離を示す一里塚ではなかったか。日常の「砦」ではなかったか。少なくとも僕はそう思っていた。こういう店が集まっている場所は安全だ、と、なぜか信じて疑わなかった。それは恐らく、このような風景が都市生活に慣れた現代人の原風景だからである。しかしそんな都市の風景などただの風景に過ぎず、必ずしも安全を担保するものでないことを、僕は知った。そして、恐ろしくなった。「人智を越える」とよく言うが、本当にそうだ。自然は人間のことなど考えてはくれない。地球のことすら考えていない。何も考えてないない。現象として、起こるだけだ。
塩竃市に入ると、信号は完全に止まっている。比較的大きな交差点では警官が手信号で誘導している。目と鼻の先に港があり、漁船かフェリーか知らないが、中型の船がガードレールを突き破って道路にせり出している。まるで空から落ちてきたかのように、空き地にドスンとたたずんでいる船もある。かつてはデートスポットだったに違いない、海沿いの公園には得体の知れない瓦礫が散乱し、シャベルカーが撤去作業に当たっている。
無情なことに、段々そういう光景に見慣れてきてしまう自分がいる。感覚が麻痺して、驚かなくなる。人間には気が狂わないようにそういう防衛本能が備わっていると何かで読んだことがあるが、傷跡が鮮明になればなるほど、冷静になっていく自分に驚く。
松島に着いた。松島に来るのはこれで三度目である。GWに入った今でこそ観光客が戻りはじめたらしいが、僕が行った4月25日の時点では観光客と呼べる人の姿はなかった。どの駐車場にも車はなく、トイレさえ使えない状態。土産物屋も飲食店も片付けに追われている風で、一応「営業中」の張り紙を軒先に掲げてはいるものの、とても入る気にはなれなかった。その日は快晴で、島々がよく見えたので写真を撮った。不謹慎を承知で、復興を願ってのピース。役人らしき作業着姿の人に怪訝な目で見られてしまった。多分、地震後ここでピースした初めての「観光客」なんだろう。
東松島
松島に別れを告げて、そのまま国道45号線を石巻目指してひた走る。吉田川という一級河川の川沿いを走っていると、土手に瓦礫の山。そして川面には車や家が浮いているのを見た。海から逆流してきた津波に押されて来たのだ。さすがに絶句した。
気付くと対向車がほとんど自衛隊であるのに気付く。先行車も<災害派遣>と書かれたプレートを貼った、深緑色のジープである。自衛隊に囲まれながら長い橋を渡ると、ぱっと視界が開け、同時に「あ!」と声をあげてしまう。街が一呑みにされたのが手に取るように分かるのだ。右手には田園地帯が広がっているのだが、視界の届く限りゴミが散乱し、車や、倒壊した住宅の屋根などが転がっている。
不謹慎かも知れないが、それはシュールレアリズムの絵画のようにありえない風景だった。左手に目を移すと「仙石線」の線路が延びているが、線路上に瓦礫が散乱してとても電車を走らせられる状態にはない。踏切も変形している。にもかかわらず、作業員の姿がほとんど見えないのは人手不足だからか。復興が進んでいるとはお世辞にも言えない状態だ。仮設住宅さえ「お盆までに」と言う首相だからローカル線の復旧など十年先の話だろう。
石巻に近づくにつれて惨状は増し、自衛隊の車両も増え、砂埃が舞い始める。これまでの町々と比べて、明らかに被害が大きい。多賀城市や塩竃は海に近いがその代わり地形に起伏があり、ひどい有様だと思っていると、ふいに無傷に近い状態の場所に出たりとムラがあった。しかし東松島は違う。街の海側がすっぽりやられてしまっている。
ここまで来て、はじめて先に進むのが憚られた。僕は普段着で、長髪で、県外ナンバーで、用もなく、ボランティアでもなく、ただ単に宮城県職員のお墨付きをもらって「ならば」とやって来ただけの風来坊である。僕は人の数倍無神経で自己中心的な人間だと自負しているが、そんな僕でも、埃まみれになりながら後片付けをする住民や自衛隊と目が合うと、やりきれなくなる。やはり「見慣れる」ことなどないのだ。見慣れたと思っても、すぐにより強いショックに襲われて感覚が更新される。
しかしここまで来て引き返すのも馬鹿らしい。石巻はすぐそこである。
左手に、スーパーの看板が見えた。「ヨークマート」。気分転換とトイレ休憩をかねて車を入れる。店は営業していた。店内に入り、陳列棚を見て驚いた。
充実の品揃え!!
しかも関東では貴重品のヨーグルトがセールに出されているではないか!どういうことだ!?カップ麺も卵も牛乳もパンも、下手をすれば関東のスーパーよりも安いくらいである。凄い、ヨークマート。お陰で幾分か気が楽になった。
石巻
東松島の「ヨークマート」で勇気をもらったと思ったら、それも束の間、石巻は戦場だった。これまでの被災地とは比較にならない。津波の影響なのか地震の影響なのかもう判然としないが、とにかく街全体が荒れている。異様に車の数が多く(住民も車で移動しているのだ)、そのうえ道が遮断されたりしているため、よそ者の僕には緊張と冷や汗の連続であった。
また、いたるところで重機が作業をしており、どどどどどど、がががががががと轟音が響いてくる、砂埃の量も多く、また前後左右に自衛隊のトラックやダンプがいるため、物々しいことこの上ない。今はどうなっているか知らないが、部外者の来る場所ではないというのが僕の率直な印象だ。連休を利用して行こうと思っている人は特に目的がないのなら考え直した方がいい。
渋滞をくぐり抜け、やっとのことで石巻駅近くのコインパーキングに車を停める。駅前は面影をとどめてはいるが、ふと見るとブティックのショーウィンドウが割れて、汚泥が店の中に入り込んでいたり、歩道に亀裂が入っていたり、浮いていたりする。駅では下校途中の女子高生たちが楽しげな様子でバスを待っている。誰かの噂話でもしているのか、ケラケラ笑っている。
ニュースなどを見ていて思うのは、女子中高生たちの「たくましさ」だ。とにかく明るい。被災した母校に戻って「これ誰々のじゃん?」「うわー」と騒ぐ、自転車が寄付されれば「マジー?」「いえーい」と大喜びする。東北人は寡黙で頑固でぶっきらぼうというイメージがあるが、それは男たちだけで、以外と東北の女性というのはネアカなのかも知れない。まあ、「箸が転んでもおかしい」というくらいだから、なんでも有りか。
駅前の「仮面ライダーV3」を写真に撮り、「石ノ森萬画館」に向かう。萬画館へは「石巻マンガロード」という商店街を抜けてゆくのだが、歩道はゴミ置き場と化しており、やはりどこに行っても生臭い匂いがする。「マンガロード」で営業している店はほぼ皆無で、話し声も聞こえない。人の気配がない。もう片付けも終わり、安全な場所に避難したのかも知れない。見かけるのはボランティアや警官が多く、まだ日常を取り戻す段階にはないという印象。
町中のガイドマップを頼りに「エッちゃん」像を探す。十分ほど歩き回って、やっと見つけた。瓦礫の中に、オカッパ頭の小さいシルエット。近づいて、変化に気付く。
なんと、鯉のぼりを背負っている!(女の子なのに)
誰か心の優しい人が付けてくれたのだろう。粋な人もいるものである。009やライダー等、数あるモニュメントの中で、こんな待遇を受けているのは「エッちゃん」だけだった。
福島
石巻を後にした僕は福島市に向かった。三陸道が大渋滞していたので、来た道と同じ国道45号を使って仙台方面へ南下し、松島北部から内陸に向かって延びている県道9号を使って東北道大和ICに出た。そして福島へ向かった。福島に着いたのは夜九時頃だったと思う。ホテルにチェックインし、行きつけのステーキ店に行く。するとマスターが
「すいません、今日はちょっと貸し切りで」
と言う。
中を覗くとなるほど宴会をやっている。でもちょっと待てよ。
宴会?
放射能漏れてるのに宴会?
美味しいインディアンステーキを諦め、仕方なく駅方面に戻る。駅ビルの中に「DUCCA」というイタリアンらしいレストランを発見。無性にスパゲティが食べたくなり、中に入ると、店員さんが笑顔でお出迎え。そしてここでも何かの歓迎会のようなパーティをやっている。幸い「喫煙者」は「個室」(しかも広い!)という関東とは正反対の信じがたい「弱者救済」サービスで騒音は気にならなかったが、
「ここ、福島だよな?」
と思わずにはいられなかった。個室の窓から駅が見下ろせるのだが、マスクをしている人はほとんどいない。不安のかけらも見て取れない。水素爆発なんかどこ吹く風。さすがの放射能も福島人の日常の壁までは壊せないらしい。なんだか頭が混乱してくる。一体何が正しいんだろう。ていうか福島の人は平気なのか!
「いや~、だってもう起こっちゃったことはしょうがないですよ」
翌朝、福島県庁の職員に話を聞いたらそう言われてしまった。しょうがないって・・・。
「それに福島は1マイクロシーベルトですから。毎時」
1マイクロシーベルトって高いんじゃないの??東京は0、0何シーベルトだぞ。と思ったけどあんまり飄々としているのでもう何も言えねえ。これじゃ東電が潰れないわけだ。当の福島県民が怒ってないんだから。するとなんだかこっちまで放射能なんか鼻くそみたいなものに思えてきて、いっそ南相馬まで行ってみるか、第一原発から20キロのところまで行ってみるか、そして飯舘村にも行ったるか!という気になり、車を国道115号へ向けて走らせた。
国道115号は別名「中村街道」といい、相馬市へと延びる道である。絵に描いたようなのどかな田舎道で、新緑にもえる山肌や田園に満開の桜が浮き上がって見えるその様は、美しすぎるほど美しい。
しかし・・・と僕は憂鬱な気分で思う。
「チェルノブイリ」にも美しい景色があったのではないか?僕たちは「チェルノブイリ」という土地で一体どんな作物がとれ、何が名物で、どんな気候で、どんな人が住んでいたのか何も知らない。知っているのは、あそこが「汚れた土地」であり、危険な地域であるということだけだ。それと同じように、外国の人たちも今後「FUKUSHIMA」と聞いただけ恐れをなすことになるのではないか。こんなに美しい景色が福島には掃いて捨てるほどあるというのに。
相馬・松川浦
一時間ほど走ると、相馬市内に入る。市街地はほとんど被害を受けていないが、さらに海へと突き進むと、「一般車両立ち入り禁止」の看板が。しかしどの車も無視して進んで行くので僕もなんとなくあとに続くと、松川浦という港町に出た。自衛隊の車が見える。気配で、何かがおかしいというのが分かる。被災していた。
松川浦。ニュース等でもほとんど耳にしない名前だが、ここは壊滅的と言っていいくらい酷い有様だった。家は粉々である。電柱は折れてひしゃげ、鉄骨がむき出している。船はほぼ全て陸に乗り上げるか、転覆している。そしてむごいことに、復興がほとんど進んでいない。自衛隊が橋の橋脚のような巨大なコンクリートをクレーンで吊して撤去したり、手作業で瓦礫を片付けたりしている。しかしその数は少なく、石巻の十分の一ほどだ。
さらに胸を打つのが、この松川浦という場所が、とんでもなく美しい場所だということ。倒壊した家屋の間を縫って埠頭の先まで行くと、水平線の先に長く延びた中州のようなものがかすかに見える。その中州の岩肌にはいくつも穴が空いており、不思議な光景が広がっている。福島には何度も来ているが、こんな景勝地があったとは知らなかった。115号があまりにものどかな道だったので僕も油断していた。はじめて涙が出そうになった。
南相馬
松川浦から相馬市街に戻り、国道6号線に入る。ニュース等で散々言われているので説明の必要もないと思うが、この国道6号線をまっすぐ南に向けて進むと、福島第一原発に行ける。ただし今は原発から半径二十キロ以内が避難区域に指定されているため、道は途中で封鎖されているだろう。とりあえず行けるところまで行こうと決め、地図を閉じた。
瓦礫の散らばる田んぼを脇に見ながら、車を飛ばす。田んぼが汚いというのは悲しいことだと思う。日本全国どこを探しても、耕作放棄地でもない限り、「汚い田んぼ」というのはまずない。日本の田んぼはいつだって美しい。春になれば水が張られ、夏になると青々と稲が育ち、秋になれば黄金色の稲穂が風にゆさゆさと揺れる。田んぼは一番身近な季節を映す鏡であり、多くの日本人が田んぼを見て季節の移り変わりを実感する。桜が咲き、野菜の苗が出回りはじめているというのに田んぼが泥を被ったまま放ったらかしにされているなどというのは、日本人からすると許されざる光景であり、それゆえ胸が痛む。
そんなことを考えているうちに、車はもう南相馬に入っていた。車の量は特に減ったという印象はない。自衛隊は相変わらず多いが、それ以上に一般車両が目立つ。今のところガソリンスタンドもコンビニも普通に営業している。マスクをしているドライバーはそれほど多くはない。自衛隊などマスクもせず窓も全開である。(僕もだが)線量計で計ったら一体どのくらいの放射線量なのだろうか。多分もう少しで原発から20キロの距離になる。
幾つか大きい交差点を越えると、急に車が少なくなる。それでも勇気を振り絞って前に進む。コンビニがあるが、全ての窓に新聞紙が貼り付けてある。対向車と出会う頻度が進むにつれて少なくなる。軽トラックがやってきて、運転手が僕の顔を怪訝そうに見て通り過ぎていった。自衛隊は?ときょろきょろしてみたが見当たらない。おーい。バックミラーには、空っぽの道路が映っている。
走っているのは僕だけだ。
ゴクリと生唾を呑み込んだ。
と、道の先に数人の警官が立っているのが見えた。こちらに手を振っている。「戻れ」と言っているらしい。ここが原発から20キロの地点らしい。
ちょうど「セブンイレブン」があったのでウィンカーを出して駐車場に入り、地図を出した。関東方面に戻るには、Uターンして県道12号という道で内陸に入り、川俣町のあたりで南下し、三春を通り・・・というルートが一番早そうだった。その県道12号を指でなぞっていると、
飯舘村
とある。飯舘村を通るのか・・・。ていうか通れるのだろうか。「行けば分かる」そう自分に言い聞かせて国道6号を今度は北上する。数分で県道12号にさしかかり、左折する。前にはパトカー。無音でサイレンを回しながら走っている。サイレンスサイレン。パトカーについて山道をぐんぐん進む。このパトカー、異常に早い。80キロくらいで走っている。標識に「↑飯舘」と出ている。ここも美しい山道。誰に見られることもなく、桜が路上に春を投げている。
30分ほどで飯舘村に入った。ゴーストタウンと化しているかと思ったら、どっこい、自転車はいるわ、車はいるわ、農作業をしている老人はいるわ、避難する気無しの村民がちらほら目に入った。さらにすごいことに、飯舘村村民会館
特に物がないわけでもなく、電気が消えているわけでもなく・・・いたって普通である。立ち読みしている兄ちゃんまでいる。挙げ句には農家風の老人が入ってきて、女性店員に「お姉ちゃん、かふぇらてってのねえがね、かふぇらて」
「かふぇらてですか?」
「そうそう、かふぇらて」
優しい女性店員が「カフェラッテ」を持ってきて、会計した。つられて僕も「カフェラッテ」を買ってしまった。
車に戻り、カフェラッテにストローをさす。
なんだか異様に疲れた。
フロントガラスの向こうには美しい飯舘村の景色が広がっている。農道が田んぼを縫って彼方の山裾に向かって延びている。猫があくびをしている。車が来て、人が降り、「セブン」に入ってゆく。僕はカフェラッテをすする。美味しい。カーステレオがブラーの「パークライフ」を流している。
明日は家に帰る。うちの庭はどうなっているだろうか。四日間も水をあげていない。水切れを起しているに違いない。
僕は車を出した。
なにも怖いものなんてないんだ。

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今日(24日)、反原発を訴える市民団体が東京都内で「大規模な」脱原発デモを行った。集まった参加者は4500人で、港区内の公園で集会を開いた後、有楽町にある東電本社まで行進したという。僕はこれをNHKのニュースで知った。それも8時台の、主催者インタビュー付きのニュースでである。
これが一体どういうことかお分かりだろうか。
今から半年前のこと・・・。
2010年10月2日、尖閣諸島中国漁船衝突事件での政府の対応に抗議するべく、東京都内で大規模なデモが行われた。田母神俊雄が会長を務める「頑張れ日本!全国行動委員会」を筆頭に各団体が呼びかけを行い、その日は2700人(主催者発表)もの人が集まった。そして同月16日に行われた二回目のデモではなんと3200人(一部では5000人以上とも)もの人が集まり、最終的には希望者を従えて中国大使館まで押しかけた。
僕はこのデモに参加していないが、後日動画サイトで全容を知り、こんなことが起こっていたのか!と吃驚仰天すると同時に、何も知らずにいた自分を恥じた。そのくらいインパクトのある「出来事」だった。
それなのに、同じデモでもなぜか「脱原発」のデモはしっかり報道する。そして上のような経緯を知っている人間からすると、マスコミに報道してもらえるデモというのは、それだけできな臭さを感じずにはいられない。
コリン・ファレルという俳優がいる。イギリス出身の、ちょっとブラッド・ピットに似た感じの二枚目俳優である。日本でもそこそこ人気があるからご存知の方も多いと思うが、最近、僕はこの人は天才なんじゃないかと思いはじめている。
もっとも、最初は違った。まあ観た映画が悪かったのだが、僕が初めて彼の出ている映画を観たのはオリバー(ファッキン)ストーン監督の『アレキサンダー』だった。これが戦闘シーンよりも裸体の男女が踊り狂う宴のシーンの方が長いという、まさに「逆噴射オリバー・マジック」があますところなく発揮された自慰的ふて寝映画で、主演のファレルにも存在感がなく、「どうしてこいつがアレキサンダー?」と思わずにはいられなかった。
しかし駄作にも取り柄があるもので、あんまりひどいと、一種のトラウマとして記憶に残る。コリン・ファレルの名はそのようにして僕の記憶に刻まれた。というわけ。
それからしばらく経って、ウディ・アレンが「ロンドン三部作」というのを撮り始めた。その最終章が「カサンドラズ・ドリーム」(邦題は「ウディ・アレンの夢と犯罪」)というもので、この映画の主役がユアン・マクレガーと、コリン・ファレルだった。この映画のコリン・ファレルを観て、僕の中で彼の評価が一気に高まった。
「こいつは天才だ!」
映画を見終わった後思わず叫んでしまった。
映画は、ある兄弟が借金を返すために殺人計画を練るというサスペンで、行動的で野心家の兄をユアン・マクレガーが、ギャンブル依存症で、いつも兄の足引っ張りばかりしているどうしようもない弟をコリン・ファレルが演じていた。向こう見ずで、しかし根は優しく、金が好きで、酒がなければ立ち直れない、気の弱い自動車整備工・・・そんな人間くさい役柄を、ファレルは見事に演じ切っていた。いや、演技とは思えなかった。そのくらい上手い。コリン・ファレルという俳優がどういう人生を送ってきたか知らないが、「これ素だろ?」と思わせるオーラが出ていた。一体「アレキサンダー」は何だったんだ?と思った。俳優の素質を引き出せる監督と、自分の下らん「映像美」とやらを追求することにしか興味のない監督の差であろう。
さらに、「クレイジー・ハート」、「フォーンブース」など、彼の出演作をチェックしていくうちに、もうコリン・ファレルは僕の中で確固たる存在になってしまった。「クレイジ-・ハート」では売れっ子のカントリー・シンガーを、「フォーン・ブース」では電話ボックスに閉じ込められる不条理な広告マンを演じていたが、どちらも素晴らしかった。特に「フォーン・ブース」は目を見張る設定と展開で、全く飽きさせない。「現代はすべてやり尽くされて新しいものなんて何もないヨ」と思っている人にこそ観て欲しい映画だ。
僕は、コリン・ファレルの魅力は知性のなさにあると思っている。というより、知性もないうえに、それを身につけようという気が少しも感じられないところ、と言い換えた方がいい。つまり彼には上昇志向というものがない。それがいい。誰でも人に「あいつは馬鹿だ」と思われるのは避けたい。イメージが命の俳優ならば尚更だ。ジョニー・デップだろうとディカプリオだろうとブラッド・ピットだろうとキアヌ・リーブスだろうと、みんな自分には「知性」が備わっていることを出演する映画やインタビューなどを通してアピールすることを怠らないし、ジョニー・デップにいたってはそれがきつすぎて痛々しささえ感じるほどだ。しかしコリン・ファレルは違う。ジョニー・デップが「俺のヒーローはイギー・ポップとハンター・S・トンプソンでね」なんてほざいている横で、ガムをくちゃくちゃ言わせながらポルノ雑誌をめくっていそうな男である。
作家の中上健次がかつて、役者の魅力は「アホの血が流れているか否かだ」というようなことを言っていたが、コリン・ファレルには「アホの血」が流れている。それは演技を見れば分かるし、交際していた女性とのプライベートセックスビデオを流出されたり、何をしたのか知らないがテレクラ嬢から二度も訴えられ、挙げ句にトーク・ショーの本番中にそのテレクラ嬢から本を投げつけられたり、といった彼のスキャンダルを見ても明らかである。アホにしか出来ない芸当だろう。映画のワンシーンのような修羅場をスクリーンの外でも演じているのだ。
彼は現実でも「アホ」であり、「愚か者」であり、「トホホ」な男なのである。こういう人間は現代では貴重である。
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栃木県鹿沼市で登校中の小学生6人が突っ込んできたクレーン車にはねられ死亡した。被災地にばかり目が奪われていた関東人の横っ面をはたくような出来事だった。僕はこのニュースを最初はWebの記事で知り、夜、NHKの「ニュース7」で映像とセットで観たのだが、そのとき、一緒に夕飯を食べていた僕の妻が箸を止めてこう言った。
「またこれよ、おかしいと思わない?」
僕は不覚にもそれほど真剣にニュースを聞いていなかったのでよく分からなかったのだが、妻によると、この「ニュース7」の報道、順序がメチャクチャだというのである。説明されて、僕も納得した。
こういうことだ。
普通、事件や事故を報道するとき、「5W1H」を先に伝える、というのが報道機関の慣行になっている。つまり、Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(なぜ)そしてHow(どのようにして)というのをまず説明して、それから必要ならば他の情報を補足するというのが正しい順序ということになっている。その方が受け手も理解しやすいし、必要最低限の事実を先に与えることでひとまずの安心感を与えることにもつながる。
しかしこの日の「ニュース7」はその慣行から逸脱した報道の仕方をした。具体的にどう逸脱していたかというと、まず事故現場の映像を映し出し、「栃木県鹿沼市でこういうことがありました」と淡々とナレーションを入れる。それはいい。しかし、そこには「誰が?」もなければ「なぜ?」もなく、おまけに「どのようにして」という説明もないまま、いきなりカメラは現場に残されたランドセルを映し出し、あろうことか犠牲になった生徒の写真とそれぞれの遺族や知人のインタビューを流しはじめたのである。結局、犯人の名前、年齢、顔写真、そして「Why」(なぜ)「How」(どのようにして)の説明は最後の最後に回されていた。
つまり、NHKは事実の説明より視聴者の情をかき立てることを優先させたのである。
そもそも、子供が六人犠牲になったというだけで、どれだけ悲惨な事故かは容易に想像がつく。必要最低限の情報を後回しにしてまで被害者の顔を出し、遺族の声を紹介する必要はない。そういう二次的な情報こそ補足として最後に持ってくるべきだった。にもかかわらず、このような順序で報道するからには何か意図があるのではないか?と普通なら勘繰る。しかし、政治問題ならともかく、これは交通事故である。それも、被害者はなんの罪もない子供、加害者は茶髪の土木作業員という、善と悪がはっきりした事故だ。情報を隠すことで誰の利益が損なわれ、誰が得をするとかいう話ではない。つまり、
思い返せばあの「ニュージーランド地震」のときがそうだった。日本人留学生二十八名が安否不明となり、ニュースは連日彼らの人柄や夢や親戚・知人のインタビューを流しつづけた。夢を抱いて勉強するために留学した先での不幸に僕も同情を禁じ得なかったが、一方で「他に報道するべきことがあるんじゃないのか?」と思ったのも事実だ。つまり、あの建物の耐震性について検証する必要があるんじゃないのか?他の建物は残っているのにそこだけ崩れているのはおかしいんじゃないのか?そういった疑問についてキー局の報道番組は一切触れなかった。右も左も被害者の面影、手紙やメールに残した言葉、遺族の悲しみ・・・これで埋め尽くされていた。もっとも、このニュージーランド地震の場合、あまり深く突っ込むとクライストチャーチ市およびニュージーランド政府の責任に行き着く可能性がなくはなく(実際、海外メディアから市の耐震測定にずさんな面があったことが指摘されている)、下手をすると外交問題にまで発展する恐れがあったから、報道機関が自粛をした、という言い分は成り立つ。つまり政治的な側面が大いにあった。だからキー局は「お涙頂戴」の扇情報道をして国民の疑惑の目を涙で埋めてしまおうという作戦に出た、とも考えられる。
しかし今回の「クレーン車事故」は上述したとおり政治的側面などない交通事故である。ハンドリングをする必要などどこにもない。唯一目的があるとしたら「視聴率」だ。
こういう言い方はするべきでないのは分かっているが敢えて書くと、人は他人の不幸に快楽を見いだす生物である。快楽といっても愉快に思うわけではない。「カタルシス」つまり「魂の浄化」を得るのである。心理学的にはカタルシスは「代償行為によってもたらされる満足」とされているが、つまり他人の不幸や悲惨な状況を見て泣いたり哀れみを抱くことによって、自己の穢れを浄化させるのだ。そしてそういう自分に酔う。酔うことは快楽である。これが善いか悪いかではなく、そういう生物だということだ。本能のレベルの話。
となれば、遺族のコメントや現場に置きっぱなしになった6つのランドセルといった映像が、視聴者にどのような効果をもたらすか明らかだろう。思わずチャンネルを止めてしまう。
こんな手法は今に始まったことではない。大昔からあったし、昔の方がこれ見よがしで、えげつなかったに違いない。しかし、それはあくまで低俗なワイドショーでの話だ。少なくとも事故当日の夜、それも
なぜか?
簡単である。そのような報道は受け手の判断を著しく狂わせるからである。客観的な事実を差し置いていきなり過度な「扇情的映像」を押しつけられると、哀れみが促進され、加害者への憎しみが倍増し、その事件・事故に対する自分の中の評価が情を基準に設定されてしまい、正しい判断が出来なくなる恐れがあるからだ。今回のように善悪がはっきりしている事故はまだいい。ではグレーゾーンが残る事件や事故の場合はどうだろう?被害者にも過失がある場合、加害者に理がある場合、そういうケースでもこの調子で報道してゆくと、大衆の同情をより多く勝ち取った方が「善」となり、そうでない方が罰せられるという、法治国家にあるまじき「情による裁定」社会になりかねない。
偏向報道やねつ造ばかりが問題視されるが、いま、メディアに起こりつつある「変化」はそのような目に見えて「悪い」と断罪できる類のものではなくなってきている。