やはり三島だよ

忙しくてなかなかブログを更新できない。適当な写真を撮ってお手軽な記事にしてお茶を濁すしかねえとか思って庭に出るも、これといって真新しい発見もなく、静かにカメラのフタを閉じる。
写真がなきゃブログって更新できない訳?
と妻に毒づかれていわく、「楽なんだよ、圧倒的に!写真にヒトコトなんか書いときゃそれでカタチになるんだから」
ふーん。
文章を書くのに時間がかかるんじゃないかまったく。わかってないなー。ブログというのは写真8、文章2で成り立っているのだ。というかその程度が読み手にも書き手にも丁度いいのだ。それがブログというツールの本質であり宿命なのだ。
文章と言えばいま三島由起夫の「春の雪」を読んでいる。スティーヴン・キングの短編集を読み終わり本棚に行ったら目に留まったのがそれだった。何年も前から「豊饒の海」四部作を買ったまま放置していたのだ。
僕は最近義父と実父に死なれてからとても強く死を意識するようになっている。特に自分の父は59歳という若さで逝ってしまったので、自分もいつ死んでも不思議じゃないと思うようになった。長生きはしないような気がするのだ。こんなに死を身近に感じたことはない。そしてこれは多分相当長い期間僕の中の一面を支配するような気がする。
新潮文庫の背表紙を眺めながら、こう思った。「生きている間に読んでおくか」と。
三島の四部作は文学に親しむ人間なら一度は読んでおかなければならない作品であるはずで、5流大学の文学部などを出ている僕のような人間ならなおさら読んでおかなければならない作品である。
三島と言ってすぐに頭に浮かぶのは自衛隊市ヶ谷基地で吠えているあのピエロ姿ではなくて、僕の場合は村上春樹の多分「ダンスダンスダンス」の中の一場面である。主人公が警察の取り調べを受ける場面。その警官の一人を見て主人公が連想するのが、自分が学生時代に軽蔑していた文学通ぶった連中である。そういう連中に限って「やはり三島だよ」と言ったりする。と書く。
ボネガットやらカポーティやらフィッツジェラルドに耽溺していた主人公(=村上)からすると、知ったかぶって「やはり三島だよ」などと抜かしている文学青年はアホにしか見えなかったのだろう、、という想像を読者に起こさせ、同時に村上と日本文壇との距離感を示す楽しい場面である。
そして主人公はその「やはり三島だよ」とか言ってたに違いない警官(完全な決め付けなのだが)に、「文学」というあだ名を付ける。これが村上春樹の日本文学のイメージであり、自分はそうじゃない、そんなフィールドに俺はいない、行かないという意思表示である。
昔の村上春樹はよかった。今じゃ僕が「やはり村上だよ」とか言っている奴を見るとアホかと思う。
アウトローかと思ったら、目の前にパンをぶら下げたら飛び付く、ただの権威主義者だったんだもの。

なんという取りとめのない文章。
だから写真がなきゃ駄目と言ったのだ。
明日は横浜に出張・・・。緩慢な午後の京浜東北線でゆっくり読書に浸ろう。

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2013.05.23 | |

ローマ人と、最近読んだ本

古代ローマ人が現代の日本の銭湯にタイムスリップする漫画が大変人気だそうである。映画化もされ、そちらもヒットしているようだ。80年代以降の邦画はほとんど観ないくせに、毎日ちびちびと塩野七生の「ローマ人の物語」を読み進めているせいか、僕のアンテナもつい反応してしまう。
予告編だったのか、何かのコマーシャルだったのかよく分からないのだが、トーガをまとった阿部寛がOL風の女性たちに向かって「奴隷の分際で」と吐き捨てる場面があり、思わず吹いてしまった。
ところで、塩野七生の「ローマ人の物語」(文庫)は全43巻あるのだが、僕はやっと33巻に入ったところである。気合を入れれば二~三週間で読み終えるだろうに、いつも移動中とか、待ち時間とか、湯船の中とかの「ながら読み」なので一年以上かかってもまだ読み終えない。もともと読むのも早い方ではないのだけど。

「ローマ人~」と並行して小説も読んだりするのでなおさら遅くなる。外国の文学作品が多い。僕は本を読む時、自分にお題(ミッション)を課す。例えば、「女性作家ばかりを読もう」とか「今週は短編集だけ!」とか「映画は観たけど原作は読んでない作品を読む」とかである。まあ、ミッションと言っても、ただ単にその時の気分といえばそうなのだが、今回は「超有名な作品だけどまだ一行も読んだことのない小説を読め」であった。
で、選んだのが
「嵐が丘」と「ファウスト」と「ダブリン市民」。

「嵐が丘」はウィリアム・ワイラーの映画版をかなり前に観ていたのだが、実写版を先に観てしまった作品の常として、原作は後回しになっていた。しかし、特に読む必要はなかったかも。というのが率直な感想である。個人的に、退屈極まりない小説だった。
一人の女中を語り部に、最愛の幼馴染キャシーと死に別れ、愛の亡者(と言うかモンスター)と化したヒースクリフの一生が語られるわけだが、彼の執拗なまでの追憶とセンチメンタリズムと狂気に途中から胡散臭さを感じてしまい、読む気が失せる。「そんなにキャシーが恋しいなら後を追えばいいだろうが」とツッコミたくなる。
同性愛者であったエミリー・ブロンテの、憧れの女性への行き場のない愛が、ヒースクリフという、死に別れた女の記憶の中でもがく化け物となって昇華した、と僕は理解したのだが、あいにく同性愛者でもなく、「行き場のない愛」なるものをかつて持ったことがないので、作品に共感出来なかった。

「ファウスト」は前後篇に分かれているが、前編が面白い。
悪魔・メフィストフェレスがむく犬に化けてファウストの部屋に入り込み、正体を見せるシーンなど、さすがに視覚的。あと、悪魔を追い払うために、ファウストが魔法陣(ノストラダムスの本を手本に)を描き、メフィストフェレスに向かって呪文というか、気功派のようなものを放つのだが、このシーンなどはドラクエとかハリー・ポッターとかを連想させて、「ゲーテすげえっ!!」と普通にぶっ飛んだ。
そういえば、芥川の「邪宗門」にも気功派(かめはめ波みたいなの)を放つ場面があったが、やはり現代の作家ももっと気功派を使うべきだろ。とか訳分からん感想を抱くのでありました。

ジョイスの「ダブリン市民」は短編集。実はまだ読みかけなのだが、いつ以来だろう、「早く先が読みたい」と思わせる作品は。彼の繰り出すひねりの効いたセリフや比喩、到底そんな心理は2行では言い表せない!と脱帽したくなるような、簡潔で鋭い文章、そして観察力・・・。
なにも難しいことなんか書いてない。そこに人間がいて、喋ったり、歩いたり、食べたり、包丁を振り回したり、女をナンパしたり、景色を見たりしているだけである。愚かさがあり、愛がある。

「ダブリン市民」は、座り心地のいいソファみたいに、今の僕のモードにフィットした。こういう小説が読みたかった。
サリンジャーの「ナインストーリーズ」とともに、僕のベスト短編集に加わるのは必至。
そんな訳で、今日は本の話でした。



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2012.06.24 | |

園芸文学講座・第二回~筒井康隆「家族八景」~

忘れた頃にやってくる園芸文学講座、二回目は筒井康隆の「家族八景」(第一章「無風地帯」)を紹介する。
この作品はテレパス・七瀬が初めて登場する作品であり、「七瀬再び」「エディプスの恋人」へと続く「七瀬三部作」の第一作として筒井作品の中でも重要な位置を占める。
もっとも、前回の「夕べの雲」のように、ガーデナーが喜ぶような描写は皆無である。登場人物が園芸をしているわけでもなければ、花の名前もほとんど出てこない。ただひたすら、テレパス(と同時に家政婦)である七瀬の意識を通して、現代日本の家族・家庭のあやうさ、おかしさ、醜さを炙り出すだけである。
ではなぜ紹介するのかというと、「花」を抜きにして七瀬は語れないからである。
書き出しを読めば、それは一目瞭然である。

 

前庭の、赤い花が満開だった。なんという花なのか、七瀬は知らない。彼女は花の名前には興味がなかった。

のちに赤塚不二夫の手によって漫画化もされ(「ハウスジャックナナちゃん)」、ドラマ化までされた人気ヒロインの最初の情報が、「花の名前を知らない」そして「花の名前に興味がない」である。
これは何を意味しているのだろうか?
普通、小説に花を出す場合、作家はそれが何の花なのかまで書くものだ。単なる背景にすぎない場合(たとえば距離が離れていて「何かの花が・・・」と言わざるえをないような場合)は別として、そこに花が咲いていれば、何の花なのか読者にも知らせようとする。例えばこんな風に・・・

 

海濱の松が凪に鳴り始めた。庭の片隅で一叢(そう)の小さなダリヤが縮んでいつた。

横光利一「春は馬車に乗って」

アヴォンリー街道をだらだら下って行くと小さな窪地に出る。レイチェル・リンド夫人はここに住んでいた。まわりには、榛(はん)の木が茂り、釣浮草の花が咲き競い・・・

モンゴメリ「赤毛のアン」 


小説中における花(ないし植物)は往々にして何かを象徴もしくは表現しているものなので、読者もそのつもりでそれらを「見る」。横光の「ダリヤ」から読者は何やら不吉な予兆を感じとるであろうし、これとは対照的に、「赤毛のアン」からは希望にあふれた、美しい光景を想像するだろう。
しかし「家族八景」の冒頭の「赤い花」からは、読者は「赤」という色以外、ほとんどなにも思い描くことが出来ない。名前もなく、ただ「満開」とあるだけで、あまりに抽象的すぎるからだ。
となると当然、「ならどうしてわざわざ読者に花を見せるのか?」という疑問が湧く。

 

実はこの冒頭の「赤い花」は、情景を映し出したり、何かを象徴するためにあるのではない。簡単にいえば、「七瀬」という女の像を端的に表すための「鏡」としてそこにあるのだ。
「なんという花なのか、七瀬は知らない」というところから、われわれはこの人物(七瀬)が若く、そしてどことなく社会や集団といったものから距離を置いた存在であるような印象を受ける。もしこれが仮に「知らなかった」であれば、知る機会はあったけれどついに知ることなく今に至っている、と読むことが出来、この人物の背後に家族や友達、学校といった社会的な面を見出すことが出来たろう。しかしここでは「知らない」と、断定的に書かれている。これは「普通の人ならば知っているだろうが、この主人公はそうではない」と言っているように聞こえる。知る機会さえなかったと。つまり、そのような環境で育った若い女、ということが一瞬にして読者にインプットされるのである。
そして作者はさらにこう突き放す。
「彼女は花の名前には興味がなかった。」

花の名前に興味がない女。花などには見向きもせずに生きてきた女-。俗世間から一歩身を引いて、日陰の道を一人でたくましく生きてきた女。そんなイメージが浮かばないだろうか?どうやらこの人物は、意志を持ってそういう生き方をしているようだぞ、と、読者は思うだろう。それが作者の狙いである。
また、「花の名前には」の「には」によって、われわれは、この人物がそれより何か他のことを求めていること、他に探しているものがあることを知る。
ではそれは一体何なのか・・・なぜ七瀬は花を見ても何も感じないのか・・・この問いは続編の「七瀬再び」「エディプスの恋人」を読み進めるうちに自然と明らかになるだろう。

この章の最後の最後に、またこの「赤い花」が登場する。

どうぞ、いつまでも家族サーカスをお続けなさい。舞台装置じみた小奇麗な尾形家を振り返ろうともせず、七瀬は門を出た。前庭にはまだ、あの赤い花が咲き乱れていた。

書き出しの「赤い花」は七瀬の性格を表すための道具にすぎなかったが、同じ「赤い花」でも、書き出しの「赤い花」とエンディングの「赤い花」とでは、意味するものがまるで違う。
それは自分で読んで確かめてください。


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2011.11.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) |

園芸文学講座~庄野潤三「夕べの雲」~

「こんなに大きくなったのか」
庭で大浦がびっくりしたような声を立てた。居間の縁側のすぐ前、硝子戸すれすれのところに萩が生えている。
(中略)この萩の前に水道の蛇口があるので、大浦が庭樹に水をやるときは、萩の枝をちょっと手でよけるようにして、そこへ入り込まなければならない。
それくらいだから、萩が大きくなったことは、彼はとうに承知している―。

これは庄野潤三の「夕べの雲」の書き出しである。
主人公・大浦が、自分の植えた萩が庭の片隅で急成長しているのを見て驚き、独り言をいう。そして風が吹く度にこの萩が障子をなで、音を立てるので、その度に「どきんとする。」というエピソードが続く。小説は、この冒頭から受ける印象を少しも裏切ることなく、淡々と進んでゆく。誰も殺されないし、セックスもない。あるのは山の頂にポツンと建った家と庭、そしてそこに住む4人の家族のありふれた肖像である。

そんなドラマ性の極めて乏しい小説をなぜ紹介するのかというと、第一に、僕が好きな小説だから。第二に、このブログの趣旨に合っているから。つまり、園芸の場面が多いのである。たとえば―・・・

 

「うちのコスモス、駄目らしいわ」
がっかりした細君は、その前を通る度に、もう諦めたようなことをいっていた。ところが、このコスモスが咲き始めた。よその家のコスモスがそろそろ終わりかけた頃に、花ざかりになった。駄目だと思っていたのが咲いたので、種をまいた細君と正次郎は無論のこと、大浦の家族はみんな気をよくしたのであった。

 

霜が降りるようになったので、大浦の家では庭の浜木綿に霜よけをしてやった。日曜日の午前中に晴子がやった。(中略)
南だけ開けて、ビニールを垂らすようになっている。風が吹くといけないので、重石を三つ、用意してある。日中のあたたかい間は、ビニールをまくって、浜木綿を日なたぼっこさせる。日がかげる前に、もと通りにする。うっかりビニールをまくったままにしておくと、霜よけがありながら霜にあててしまう。自分の家の雨戸は締め忘れることがないのに、霜よけの覆いは取ったまま、一夜を明かす。
せっかく晴子がいい霜よけをしてくれたのに、大浦は三日か四日目にビニールをおろすのを忘れた。次の朝になって、庭を見て、分かった。
「ああ、あ」

 

「だからどうした?」と思うかもしれないが、僕はここまで何でもないのにとんでもない文章を書ける人を他に知らない。もし書店で文芸誌をめくって、「うちのコスモス駄目らしいわ」なんて台詞が目に入ったら、僕はきっとその先が知りたくてページをめくってしまうだろう。
その台詞の一体何がすごいのかというと、その言葉を一瞬目にとめただけで、そういう細君の表情、姿勢、声のトーン、そしてどこか頼りないコスモスの立ち姿などがぱっと目に浮かぶところだ。
まあ、自分が園芸をやっているからよりイメージしやすいというのはある。しかしうちには萩も浜木綿も植わっていないけれど、急成長した萩が風に吹かれて障子をこする音や、冬の透き通った朝日の中で小さく凍えるその花の姿を、昨日うちの庭で起こったことのように思い浮かべることが出来る。
ガーデナーであろうとなかろうと、家に庭があろうとなかろうと、関係ない。咲かないコスモスを見下ろして、ちょっとがっかりした女の横顔をイメージするのに、特別な能力も鋭敏な感受性も必要ない。

そういう場面を切り取って、混ざりっ気なしで提示できる作家はもういない。咲かないコスモス、下ろし忘れたマルチングシートに「人間」を見出す感性より、豊胸手術をしただの母親を刺しただのといった「特異な体験」をいかに「客観的に」「冷静に」描けるかで才能の善し悪しが決まるのが昨今の文芸界の傾向である。そしてそういう猫っかぶりの鼻持ちならない文章を「うまい文章」という。

 

江藤淳は「成熟と喪失」の中でこの「夕べの雲」を「恐怖小説」と評した。もちろん、雪に閉ざされたホテルで親父が斧を片手に暴れまわるようなそういう「恐怖」ではない。むしろ「不安」に近い。少しでも力を加えると、ばらばらと崩れ散ってしまいそうなもろさ、あやうさ、せつなさ。それはここでは説明しきれないので、興味を持った方は自分で読んで確かめてみるといい。

一見単なるほのぼのとした「園芸小説」のように見えて、得も知れないスリルに満ちた不思議な小説。それが「夕べの雲」である。


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2011.10.18 | |

ソーラー物語

どんな技術にも物語がある。誰が、なにを契機に開発をはじめ、どんな苦労をして何を生み出し、そしてそれが今現在どんなことに役立っているか・・・・。
「技術立国」である日本にはこの手の「物語」が溢れていて、国民もまたこのような「物語」を愛する。普通の日本人は自分の国の技術こそ「ナンバーワン」だと思っているし、これからもそうあってほしいと願っている。「もともと特別なオンリーワンだからナンバーワンになんかならなくたっていい」なんて本気で信じているのは槇原敬之とどこかの元大臣くらいのものだろう。

ところで、いま日本は原発か自然エネルギーかで国論が二分しているが、原発反対派(自然エネルギー推進派)の弁を聞いていると、やれコストがどうとかヨーロッパではどうとか、経済効果がどうとか、そんな数値的な話ばかりで、どうも心に響いてこない。それどころか、聞けば聞くほど胡散臭さが増してくる。特に飯田哲也氏の説明はひどい。人柄は朗らかそうで、語り口もマイルドで耳障りはいいのだが、示される根拠を見ても、武田邦彦氏のように「な~るほどね」という感じにはならない。別に武田教授ほど分かりやすくなくとも面白くなくとも構わないのだが、客観的に見て、話自体が退屈である。数値が合ってるとか間違っているとかいう問題ではなく、語り方に問題があるのだ。

彼ら「自然エネルギー派」のプレゼンターには、語りかける相手が「日本人」だ、という意識が欠如しているような気がしてならない。

ここで一冊の本を紹介したい。タイトルは「なぜ、日本が太陽光発電で世界一になれたのか」。これは07年に「独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構」(略して
NEDO)という機構から出版された本(というより写真付きの冊子)で、タイトルを見れば分かるとおり、日本の太陽光発電がいかに凄いかを紹介する本だ。主に三洋電機、芝浦特機、カネカ、京セラ、再春館製薬、関電工、シャープなど、いち早く太陽光ビジネスに着目し、その開発に力を注いだ企業に話を聞きつつ、エネルギーの今後について考える。
この本のいいところは、我が国における太陽光発電の歴史を詳しく解説しているところである。そして、どんな技術にも物語というものがあり、我々日本人はそんな「開発物語」を聞いて鼓舞される、という点を踏まえた上で書かれている点だ。あとがきを引用する。

 

「日本の太陽光発電は、実に30年余りの歴史を有しています。本書は、「いまや名実ともに世界をリードするようになった我が国の太陽光発電の歩みを振り返りながら、そこから見えてくる未来像までを提示したい」という趣旨のもと企画されました。しかし、30年あまりの太陽光発電の歴史を、ただ時系列に沿って無味乾燥な数字やデータ、図表等で紹介しても面白くありません。(中略)そこには、私たちが知らないさまざまなドラマがきっとあったはずです。そして、成功の裏にはその数十倍、数百倍もの失敗があり、スポットライトを浴びた人や技術にも、それらを支える無数の人々の存在があったはずなのです」

 

いわば「ソーラー開発物語」である。
今に至る経緯を大雑把に言うと、まず桑野幸徳さんというパイオニアがいる。この人は1963年に三洋電機に就職して、半導体デバイス(結晶体シリコン)の研究に当たるのだが、アメリカで新しいシリコン「アモルファス」(非結晶シリコン)という物質が発見されると、反骨精神から、当時扱いが難しいとされていたこの「アモルファス」の研究に移る。(「みんながやっていないことに取り組もう」という社風が当時の三洋にはあったらしい)。しかしどれだけ研究を進めても一向に芽が出ず、上司に「桑野君、きみはいつ会社を辞めるんだね」と冗談ともなくプレッシャーを掛けられる始末。
そんな状況が変わったのが1973年。第一次オイルショックが起こり、「石油に変わる新エネルギー開発」が国策として掲げられ、翌74年には国のプロジェクトである「サンシャイン計画」がスタート。三洋は「太陽電池」開発へ力を注ぐようになる。そして苦節7年・・・とうとう桑野さんはアモルファスシリコンの実用化に成功し、80年、アモルファスシリコン太陽電池を使った「ソーラー電卓」を世に送り出すのである。このソーラー電卓が大ヒットしたのは今現在売られている電卓の大半に太陽電池が付いているのを見ても分かるだろう。その第一号を世に送り出したのが三洋であり、この桑野さんなのだ。そしてこの太陽電池を用いた「ソーラー電卓」の成功が、ソーラーパネルへの足がかりとなり、本格的なソーラーパネル開発がスタートする。

 

しかし、かつてないほど日本中が「ソーラー熱」にうかされている今、桑野氏の名前を聞くことはほとんどない。飯田氏をはじめとする自然エネルギー推進派の人たちにしても、高木仁三郎(反原発運動家)の功績は称えても、桑野氏のような技術者の功績には触れない。彼らは太陽光発電の可能性を論じるだけで、それが一体どのような技術で、どのような労苦の末に実用化に至ったのかまでは語ろうとしない。ただパネルを持ってきて、「ヨーロッパではみんなつけてますから」と言うだけだ。しかしその可能性についても、無味乾燥な数字やデータ、図表等を示すだけ。これでは人の心は動かせない。
特に僕のような自然エネルギー懐疑派の人間というのは(自分で言うのも何だが)政治的に保守的な人が多く、<反原発=サヨク=いかがわしい>と頭から決めつける傾向がある。加えて先だって自民党の片山さつき議員が国会で指摘したように、本当に「メガソーラー発電」をするとしても、そのソーラーパネルは人件費の安い中国で作ることになるから、国内の雇用は生み出さない・・・などという見通しまで指摘されては、もはやいかがわしいどころか、<太陽光推進=売国>と言われても仕方があるまい。(まあ、考えてみれば当然のことなのだが)

この本を読む前は、僕も<太陽光=いかがわしいもの>と思っていた。しかし太陽光発電が「日本のお家芸」であったこと、そして開発にあたった研究者・技術者たちの苦労を知って、太陽光発電というものに対する印象はずっと良くなった。確かに発電量や固定買い取り制度には大いに問題があり、僕自身、反対なのは変わりないが、今後縮小してゆく原発の穴埋めとして大いに活用するべきエネルギーには違いないだろうと思う。
太陽光発電にも「日の丸」を見たい人にはおすすめの一冊だ。
(※本書は独立行政法人の広報冊子のため書店には多分置いていません。お近くの市町村図書館で借りるなどして下さい。さいたまの図書館には置いてありました)
 



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2011.07.20 | |

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プロフィール

祐平

Author:祐平
築30年の借家でホームオフィスをしながら理想の庭づくり、理想のインテリアを探求する日々の記録。
「一般教養としてのロック史」管理人。興味のある方は覗いてみてください。ネットショップも地味に
コメ欄クローズ中ですので、現在お声はメールでお願いしております。
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