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Author:yuhei
築30年の借家でホームオフィスをしながら理想の庭づくり、理想のインテリアを探求する日々の記録。

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災害とスマホ
北海道で地震が起きた。7月の北海道出張では函館、松前、札幌、美瑛と周り、最後は苫小牧港から船に乗って帰ってきた。
札幌も美瑛も苫小牧も激しい揺れに見舞われ、住民は今も断水と停電のなか不安とストレスの夜を過ごしている。
ニュースを見るとスマホの充電を求める人々の長蛇の列が映っていた。
東日本大震災のとき誰もが並んだのはガソリンスタンドだった。
まだ寒かったから灯油を求める人、いつでも関東から脱出できるよう備える人で各地のガソリンスタンド前の道路が渋滞した。
スマホの充電のための大行列というのはある意味時代の変化を示している。
東日本大震災のころはまだ半分くらいの人がガラケーを使っていたし(自分もそうだった)、スマホの利便性、使いやすさも今ほどではなかったから、デスクトップやノートPCで情報を得、共有していた。
あれから7年経ち、いまやスマホはライフラインのひとつ・・・いやもうライフそのものになった。
だからこそあそこまでの列が出来る。
友人知人にLINEで安否を確認したり、ツイッターで情報を得るためには必要不可欠なのだ。
逆に言うと、このような非常事態にあっては、テレビ・新聞・ラジオなどというものは現代人にはもはや無用の長物でしかない、ということでもあろう。

恐怖を味わったとき、人を最も安心させるのは何か。
その不安や恐怖を<シェア>(共有・共感)する相手がいること、である。
お互いの身に起こったことを交互に<伝える><伝え合う>ことで徐々に不安と恐怖は薄らぎ、冷静になってゆく。
ラジオやテレビの一方的な情報を見ていても断片的な情報しか手に入らず、落ち着くどころかむしろイライラするばかりである。
そんなものを見ているより、友人や近所の人と話をするほうがずっと安心感が得られるはずだ。
そういう意味ではLINEやツイッターなどのSNSと相性のいいスマホは、雪山における湯たんぽのようなもので、肌身離さず持っていたいというのは当然である。
大体テレビなんてのは安全な場所にいる視聴者に現地の状況を見せるために作られているようなもので、実際に被災地にいる人に向けてはほぼ何も発信していない。せいぜい「声を掛け合って出来るだけ遠くへ逃げてください」とか通り一遍の注意喚起をするくらいで、あとはわざとらしい神妙な面持ちで台風や地震の<原因>とやらを「分析」するだけだ。

スマホには電気がいる。
そしてなによりあれは基本的に一人が一つの画面を見るもので、テレビのように広間に置いて皆で見る、ということはしにくい。
有益な情報を得ても仲間内やサイト内で拡散は出来てもすぐそばの不特定多数の人にパッと見せ知らせることは出来ない。
それが出来るのはテレビである。
定食屋のテレビに映ったナイターで、バッターがホームランを打つとみんなの箸が止まる。宙を飛ぶ小さな白い球っころの行く末を見守らずにはいられない。
物理的なサイズと、その空間にいる全員に見ることを強いるような図々しさ、存在の強さ。
それがテレビの最大の武器といってもいい。
それなのに災害時ではハッキリ言ってほとんど役に立っていない。ウドの大木である。
だから誰もがスマホを充電しに列をなすのである。

のんきに「スマホの充電を求める長い列が出来ています」などとキャスターは言っているが、その光景が何を意味するのか当のテレビ側の人間たちはまるで分かっていない。
どこまでも自己陶酔的で自己中心的なメディアである。
あの行列が意味するのは、災害時には2時間半のワイドショーより、たった一通のLINEのほうが現代人には重要だ、ということを意味しているのである。
なぜなら、たった1通のLINEやメールで、自分も、自分の大事な誰かも、安堵させ、癒し、救うことが出来るからである。


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大阪 産業廃棄物収集運搬業許可 行政書士

TV・メディア考 | 23:55:11
豊洲より蓮舫
昼休みにテレビをつけると、毎日必ず豊洲の問題をやっている。特にTBSのホンジャマカの番組がしつこい。文字通り毎日毎日毎日取り上げ、しかもそれが異様に長い。30分くらい平気でやっている。それも懇切丁寧に、ねちっこいくらい深堀する。「この日本にいま豊洲以外でニュースなんかあるか」と言わんばかりである。
あるだろう。
僕から言わせれば豊洲の地下水などより民進党の蓮
の二重国籍のほうがずっと危険だし問題だ。
経歴を偽って政治活動していたというだけで普通なら議員辞職ものだが、発覚後も二転三転の発言で煙に巻き、国民を愚弄した。さらに国民をナメ切っているのがあの党はそのまま代表選を行い、「黒い女王」を代表に選んだ。
少し前にも僕は「赦される女」と題してこの問題の記事を書いたが、そのとおり、同氏が尊敬する小池百合子のお陰で二重国籍問題は吹っ飛び、国会で維新の党の議員が当人に直接糾しても、既に風化した問題を蒸し返しているかのような、そんな見えない空気に圧されていまいち話題にならない。
豊洲の問題が可愛く思えるのはそこである。
マスコミは、「騒げる」から騒ぐのである。
彼らは毎日、やれ補助機関と行政庁の意思伝達がなってないだ都議会は旧態依然とした古い体質だ隠蔽体質だなどと罵るが、逆に言えば、暇なコメンテーターを5人も6人も集めてたっぷり45分かけて役人を袋叩きに出来るだけの情報、ネタが集められている、ということでもある。
それだけ豊洲の問題は風通しが良いということだ。報道規制が敷かれたり、どこかから圧力がかけられたりもしていない。「疑惑」として、非常に健康的なのだ。それをさもブラックボックスだらけのように過剰に報道しているに過ぎない。
本当に危険な問題とは、彼らが騒がない問題である。
どう考えても大問題なのに、20分かけずに済まそうとする問題である。
はっきり言って東京都民以外の国民にはあまり関係がない豊洲の問題だけを連日連夜報道し続け、間接的にしろ全国民に関係がある蓮舫の二重国籍問題をろくに報道しないマスコミの意思決定のプロセスこそよっぽど「ブラックボックス」である。

ワイドショーのする正義面ほど欺瞞に満ちたものはない。

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TV・メディア考 | 23:55:22
狂った「自由」より選べる「真実」
「言論弾圧」とか「メディア規制」とか、最近よく耳にする。政府が公正な報道を求める要望書をテレビ局各局に送りつけたり、テレ朝やNHKの幹部を官邸に呼びつけたりしたことが一部の人々に不評らしく、ちょっとした議論を呼んでいるせいだ。
政府のやり方に反対する人の意見で多いのが「政府の介入はメディアを萎縮させ、自由な報道が出来なくなる」といったものだ。
一見するともっともらしく聞こえるが、これは違う。少なくとも日本の場合は違う。
まず、日本の報道メディアは警察や官公庁から「記者クラブ」に卸されてくるニュースを各誌が右へ倣えで報じる「全体主義的報道システム」だから、そもそも自由な報道など目指していない。朝日新聞は韓国や中国共産党の都合の悪い記事は小さな見出しで紹介するそうだが、このように、彼らはむしろ「報道しない自由」を重視する。NHKもしかり。
僕は読んだことはないが、海外の有名新聞にはその記事を誰が執筆したか分かるように記者の名前が載っているそうだ。きっと、誰もがピューリッツァー賞を狙っているからだろう。
針の先くらいの小さな手がかりから誰も知らない大事件、大ニュースを探し出し、誰よりも早く、誰よりもセンセーショナルに世界に発信する。それがジャーナリストたるものの本分であり、夢である。「ニューヨークタイムズ」など、チャイナマネーにジャーナリズム精神を売っぱらった恥知らずな新聞社もあるが、基本的には欧米の記者は自分の名に恥じないようプライドをもって記事を書いている気がする。
名前の出ない記者の書いた記事で成り立っている日本の新聞はだから、背番号も名前もないユニフォームを着てサッカーをするようなもので、平等かもしれないが、ニュースの質が均一になり、取材対象との馴れ合い体質を生み、結果、真実から遠ざかる。構造的にこれは避けられない。
真実。
そういえば、日本の新聞はあまり「真実」という言葉を使いたがらない。
朝日でも毎日でもやれ「報道の自由」だ、やれ「取材する自由」だと馬鹿みたいに「自由」を連発しても、「真実を国民に」とは言わない。
ジャーナリズムとは国民と歩む「真実を探す旅」だと個人的に思っているが、「顔」と「名前」を隠して報道する日本の新聞は、嘘、捏造、偏向、印象操作で国民をある特定の思想(反日、反原発、反自民)へ導くことが「ジャーナリズム」「自由な報道」と思っているから、「国民に本当のことを知らせる」なんて思想から最も遠い場所にいる。
慰安婦のでっち上げ記事を書いて日韓両国の間に動かしようのない「壁」を築いて極東アジアの安定と平和への道を台無しにした朝日新聞しかり、この場ではとても紹介できないような変態趣味丸出しの「日本人の習慣」を日本人にバレないように英語版だけで世界に配信し続けた毎日新聞しかり。( 『毎日デイリーニューズwaiwai問題』)
東京裁判史観そのまんまで戦前の日本を「悪」としか捉えられないくせに、天安門事件で中共による虐殺はなかったと報じるNHKしかり・・・。
これらが僕たちが頼らざるを得ないこの国の報道機関の姿である。
こんな連中に「公正さ」を求めるのはほとんどナンセンスだ。
求めたところで「弾圧だ」「圧力だ」と議論をすりかえ世人の同情を引こうとするだけだ。
彼らの機嫌も損なわず、かつ国民が何が真実で何が嘘かを見極められるようにする方法が一つだけある。
地上波テレビの多チャンネル化だ。
放送事業加入の条件をぐーんと下げて、ある程度資力を有した企業なら気軽に放送局を持てるようにするのだ。そして各々が偏りまくった報道番組を放送する。
「鳩山由紀夫&山本太郎のアイ・ラブ・IS」、「すぎやまこういちの素晴らしい日本」「がんばれ自衛隊」「今日の韓国」などなど。スポンサーなどつかなくても低予算で放送できるようにする。
右に左に暴れまくった報道番組を乱立させればいいのだ。
その中で、国民は自分に合った番組を選べばいい。
地上波に局が少ない上に、さらに選択肢の乏しい報道番組をイヤイヤ見せさせられるから余計に不満が増幅するのである。もっと枠を広げて、古舘一郎や太田光が小さく見えるようにすればいいのだ。
実際、共産党が制作しているネット番組はなにげに面白い。

すでにネットやスマホの普及で新聞・テレビのニーズは右肩下がりである。
しかしそれはより手軽に情報を集められるものが身近に現れたから、ではなく、単にテレビ・新聞がクソつまらないコンテンツだからであり、信用できない記事ばかり書いているからである。技術進化やライフスタイルの変化のせいばかりではない。ネットで見れない、読めないものはたくさんある。
今放送中の大河ドラマは恐ろしく退屈で視聴率も1ケタ台にまで落ち込んだそうだ。フジテレビの「グッディ」とかいう昼間の情報番組は新番組にもかかわらず視聴率1ケタどころではなく1%台だそうだ。そんなテレビの状況を受けて、ネットではこんな声が飛んでいた。
「だったら昔の大河ドラマ再放送してくれ!」
「昔はその時間帯、フジはアニメやドラマの再放送していたよね。また戻せば?」
自分もそう思う。
下手な新しいものより、よく出来た古いもののほうが喜ばれる時代なのである。
ネットでは削除されがちな昔のアニメやドラマを望む視聴者は多い。
ただ、報道だけは「今」を追わなければならないが、その「今」の捉え方も非常に多様化している。たった数局のテレビ局が数時間で(それも同じようなニュースばかりで)大衆の「知りたい!」をまかなえる時代ではないのである。

朝日や毎日がどんなに被害者の仮面を被って騒ごうと、安倍首相を暴君に仕立て上げようと、同情する国民は少ない。20年前なら解散に追い込まれていただろうが、そんな古い手はもう通用しない。いまだに新聞・テレビを妄信している層といえばシニア世代くらいだろう。
誰が嘘をついているか、誰が正しいか、50年以上ヤツラのジャーナリズム「ごっこ」につき合わされてきた日本人でも、さすがに気付き始めている。

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TV・メディア考 | 22:32:05
今の日本のドラマは・・・
「ふぞろいの林檎たち」を借りて観て以来、すっかり山田太一のフォロアーになってしまった。森昌子、小手川祐子、田中裕子のOL3人組がチンピラの柴田恭兵に振り回される「思い出づくり」(81年)、マンションに越してきたカップルと一風変わった高齢者たちとの交流を描いた「キルトの家」(2011年)、どれも「花子とアン」の3億倍くらい面白い。とくに「思い出作り」の最終回は日本ドラマ史に残る傑作だ。
大体テンポが違う。いつから日本のドラマはあんなチンタラするようになったのか。セリフも、役者が口を開く前にもう「どうせこう言うんだろ?」と分かってしまう。そしてその通り言う。模範解答しか書けない脚本家が増えているんだろう。
山田太一のドラマは読めない。全然関係ないことを突然言い出したり、走り出したり、抱きつかれたり、こっちが「ええええええっ」となり、置いていかれる。視聴者を「置いていく」というのは連続ドラマにとっては命だ。置いていくから付いてくる。「次を見せろ」とついてくる。
しかし最近のテレビ局はそれをやると視聴者は「ついてこない」「ついてこれない」だろうと勝手に思い込んで、視聴者の手を取って「さあどうぞ、こちらでございます」と要介護老人を食堂まで案内するようなチンタラしたドラマ作りに励んでいる。
もし本当に日本人がナイフで心臓を一突きにしているシーンを観なければ「刺された」と分からないほど理解力が低く、断崖絶壁に追い詰められなければ誰が犯人かも分からないほど馬鹿な民族だったら、どうして字幕つきの海外ドラマ・映画がヒットするのか。
アメリカの映画・ドラマは日本のそれの3倍速くらいのテンポで物語が進む。現代の日本のドラマが3話分使うところを彼らは1話でやってしまう。それだけ1エピソ-ドの濃度が濃く、テンポも速い。だから飽きない。
「テレビドラマなんか高齢者しか見ないから、オジサンオバサンに合わせてるんでしょ」
という意見もあるだろうが、60代以降の人たちは今のドラマより数倍テンポの速いドラマを見て育ってきているので、それはありえない。それこそ山田太一や向田邦子を普通に見ていた人たちである。
だから分からないのだ。誰のためにあんなもったいぶった、間延びしたテンポでドラマを作っているのか。
「あまちゃん」以来、朝ドラが復活して高視聴率というが、「あまちゃん」は観ていて恥ずかしくなるほど低次元で陳腐なセリフの連続だったし、「花子とアン」なんかダイジェスト版でなければまともに観賞に堪えるレベルじゃない。なんなの?あの花子の知性のなさは。。
村岡花子をなめとんのか、翻訳家をなめとんのか。
原作の村岡恵理が悪いのか、脚本家の中園ミホが馬鹿なのか知らないが、多少でも文学をかじった人間なら、翻訳という作業が、一つの日本語文学を生み出すより何倍も大変だということを知っている。しかしあのドラマの花子にはインテリジェンスが感じられないだけでなく、日本語への造詣もなく、言葉への執念、愛も感じない。ただ「わたしエーゴすきー」と言っている「ずっこけ女学生」だ。アンと重ねてお転婆にしているのだろうが、だったら映画「赤毛のアン」のアンを手本にしろ。奔放さと知性、女としての誇りが自然に描けていた。
いま、「赤毛のアン」の舞台であるグリーンゲイブルスには日本人観光客が押し寄せているという。
カンベンしてくれ。
でもこれで分かった。あのかったるい日本のドラマが誰のために作られているか。文化的には最底辺にいるが、ヒマと金だけは持っている、そういう人たちのために作られているのだ。恥ずかしげもなくカナダに行っちゃうような。
反吐が出る。
しかし・・・もっともっと分からないことがこの国では起こる。
最近、小栗旬主演で「ルパン三世」が実写化されたという。
・・・分からない。

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TV・メディア考 | 20:05:18
誰がための「ツイッター連動」?
フジテレビの「27時間テレビ」で紹介された視聴者からのツイッターメッセージがヤラセだったのではないか?との疑惑が浮上している。
同番組は「視聴者からの応援メッセージ」という形で視聴者からのツイートを紹介していたそうだが、そのツイートのアカウントがことごとく最近登録されたものばかりで、また、メッセージの内容もいかにこの番組が面白いかをアピールするようなものが多く、視聴者から冷たい視線を送られている。
ヤラセツイートといえば、NHKが夜11時30分から放送しているニュース番組「NHK ニュースWEB」だ。この番組は毎週「ヤラセツイート」を流している。ヤラセが常態化しているから話題にもならない。「ヤラセ」が言いすぎなら「検閲」にしようか。どっちにしても番組に都合のいいツイートしか流さないという点で「真っ当」とは言いがたい。
この番組は番組タイトルからも分かるように、ネットユーザー=若年層を意識したつくりになっていて、画面の下に視聴者のツイートが常時表示されている。しかし何万件もツイートされているにもかかわらず、番組に好意的なツイートしか画面上には表示されない。「○○さんの今日の髪型、かわいいですね」とか「待ってました!」とか。。
誰がどう聞いても「それは違うだろ」と言いたくなる様なツッコミどころ満載の政治ニュースやコメンテーターの発言があっても、画面下部のツイートには相変わらず見当はずれな「印象ツイート」が紹介されるだけだ。それかせいぜい「う~ん、、なのかな・・・」といった優等生ぶった控えめな「声」が流される程度。
これがNHKが若年層をターゲットにした「ツイッター連動型報道番組」。ヤラセでないというのならこういう声も拾って表示したらいい。
「こんな番組に受信料使われてるのか・・・(涙)」
きっとそういうツイートもあるだろう。

しかしこれは「ニュースWEB」に限ったことではない。ツイッターと連携している全ての在京キー局の番組に言えることである。
テレビ局各局はツイッターと連携することで視聴者との「双方向性」が担保され、また番組自体の「透明性」もアピールできると信じ込んでいる。だからやる。しかしハッキリ言って、テレビで紹介される「ツイート」を聞いて胸がスカッとしたり、「なるほど」と膝を打ったことがある人がどれだけいるだろうか?僕はただの一度もない。毎回ゲッソリさせられるか、腹が立つかのどちらかである。
そもそも、テレビに本当の意味での「双方向」など求めるだけヤボである。テレビという装置が「局が作ったものを一方的に電波に乗せて、個人が半強制的に少ない選択肢から選んで視聴する」という構造である限り、我々は永遠に受け手であり、テレビ局は永遠に「送り手」であり続ける。
例えるなら、テレビ局とは分厚い城壁に囲まれた城みたいなものだ。それも固く城門を閉ざした城。
僕たちがどんなに「あの番組はおかしい、あの局は偏っている」と訴えても何も変わらないのは、「双方向」などといいながら、実際は彼らが分厚い城壁に囲まれた城の奥で耳をふさいでいるからである。
僕らは城に向かって石を投げる。城壁にすら届かない。堀の中でポチャンと音がするだけだ。彼らが城門を開けば話は別だが、それをしたら落城するのは目に見えているから絶対にそうしない。テレビ局ほど保守的な組織もない。
しかしツイッターと連携すれば、城門を開いたように見せかけることが出来る。「私たちは皆さんとともにあります。価値観を一方的に押し付けたりしてませんよ、ホラ」と。
つまりカモフラージュ。視聴者の意見を募るなどといいながら国民を欺くためにツイッターを利用しているに過ぎない。
視聴者を欺くためのツイッター連動。
それがテレビの限界であり、精一杯の「双方向」なのだ。

「理研は常識が通用しない」とテレビは言う。「原子力規制委員会はおかしい」とテレビは言う。「東京電力は既得権益を捨てろ」とテレビは言う。「相撲協会は保守的だ」とテレビは言う。「食品偽装は許さない」とテレビは言う。
テレビは言う。
テレビは言う。
「テレビ局にだけは言われたくない」と言ったら、「○○氏暴言、反省の色なし」
とテレビが言うだろう。
冒頭のフジの「27時間テレビ」は「武器はテレビ」がキャッチコピーだった。
「武器はテレビ」。

僕らの武器は?

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TV・メディア考 | 00:16:49
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