2021-09-24 Fri
自民党総裁選は河野、岸田、高市、野田の4人が出揃い、29日投開票だそうだ。国民に投票権はないが、すぐ後に衆院選が控えている為、必然的に今回の総裁選の結果が国民にとって「自民党の価値」を判断する指標となる。
「総裁選に民意は関係ない」がセオリーだったが、今回ばかりは違う。あまりにも国民の声を無視した新総裁を選べば、衆院選で議席減もありうる。
だから注目度も高く、それなりに国民の期待値も高い。
ほとんど手腕らしい手腕を発揮することなく総理の座を明け渡す決意をした菅首相の、唯一気の利いた置き土産である。
さて、国民の期待と声で選ぶなら、新総裁にふさわしいのは高市早苗である。
高市を評するとき、必ずと言っていいほど「ネットの中では」「ネット民の間では」という、馬鹿の一つ覚えのような枕詞が付いて回る。
しかし(これは以前から再三書いているが・・・)「ネットの中」から出てこれない人間がどこかにいるのだろうか?
そんな「マトリックス」みたいな、現実とデジタルワールドを行き来できるような人間がたくさんいて、しかもその人たちは選挙権がなく、ネットの中だけで高市コールを叫んでいるのなら理解も出来るが、そうでない限り、「ネットの中では」とか「ネット民」などという形容は、無意味というか、意味不明である。
ネットの中の声イコール、「国民の声」「大衆の声」である。
高市の出馬表明演説の動画がユーチューブでとんでもない速さで400万再生数を超えたのは、どこかのデジタルワールドでロボットがシステムをいじったのではなく、日本中の老若男女が自宅のソファで、職場のパソコンで、スターバックスのテーブルで、帰りの電車の中で、スマホやPCをその手でじかに触って再生して計上された数字である。
9年前に安倍首相が誕生したときも同じことを書いた。
「安倍を支持しているのは「ネトウヨ」だけだ」という印象操作があまりに酷かったからである。
とかく国を売ることをよしとしないマトモな保守政治家に対して既存メディアは、「ネット民」と抱き合わせで紹介したがる。
それが一番、ネガティブな印象を一般人に与えられると思っているからであろう。
しかし時代は進んだ。
「ネトウヨ」なんてもう死語だし、SNS等の動きを「ネットの中だけのこと」と切り捨てられるほど、現実とネットの距離は離れていない。
むしろその距離はどんどん縮んで近年では逆転し、「SNSが現実を作る」のが当たり前の時代になっている。
にもかかわらず新聞テレビといったオールドメディアは、政治、それも保守政治家に関してだけは、いつまで経ってもそのスタンスを崩そうとしない。
「ネット」と「現実」は別世界、別次元、現実に反映されない・・・と言わんばかりに「ネットでは」「ネットでは」と言い続ける。
これがツイッターやインスタで話題のケーキ屋さんの話だったらどうだろう?
そのお店について400万人の人が「マジヤバ!感動!生きててよかった!」と呟いたり投稿していたとしても、それを「ネット民が騒いでら」と冷笑気味に切り捨てることはしない。
高市早苗の支持の広がりは、そのケーキ屋さんと何ら変わらない。
もし高市早苗がケーキ屋さんだったら、2ブロック先まで長蛇の列が出来て、店員が整理券を配っているところだ。
誰もが、彼女の様な政治家を待ち望んでいたのである。
自分の言葉で歯切れよく話してくれ、頭の回転が速く、どこかの二世議員コンビみたいに「脱原発」だの「レジ袋廃止」だのと、田舎根性丸出しの欧米リベラルコンプレックスにもかぶれておらず、経済に強く、女だからというだけの理由で意味もなく同性に媚びたりもせず、何より日本という国の領土と国土と国益を守るという、政治家なら当たり前のことを当たり前のように堂々と表明する姿に、国民は感動というより、ビックリしたのである。
こんな人いたんだ!?
と。
これは<社会現象>と言ってもいいレベルである。
高市早苗が当選するかどうかは分からない。
ただ個人的には、高市早苗が新総裁になって、国民にもっと彼女のキャラクターや能力や思想が伝わったら、この国は今よりずっとスマートに、気高く、豊かに、賢く、痛快で、マトモになるのではないかと思う。
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産廃 行政書士 許可
2019-07-21 Sun
参院選は与党が過半数を獲得した。
土曜日、大宮に行ったらたまたま首相が演説していたので人混みを分け入って聞いた。
民主党の自滅以降、自民党1強といわれて久しい。
特に復活後の安倍首相もしくは安倍内閣の安定感は平成以降では例にないほどである。
大人気だった小泉元首相でさえ5年5ヶ月である。
当時は短命内閣が当たり前だったので5年でも「すごい長期政権」というイメージだった。
まだあの頃は民主党や左翼マスコミが元気で、「偏向報道」という言葉さえ一部の人しか使わないような時代だったから、ちょっとした失言ですぐ自民党の支持率が急落し、クビが飛んだ。
自民の議員ならどれだけ馬鹿にし揚げ足を取っても誰も眉をしかめなかった。
テレビや新聞が世論を誘導できた、のどかな時代であった。
それがいまや「NHKから国民を守る会」ときた。
維新の候補も街頭で既存マスコミがどうのSNSで拡散がどうのと声を張り上げていた。
隔世の感がある。
ただし、これも本末が転倒するとひどくみっともない。
秋葉原に行ったらある候補者が政策ではなく、自分の街頭演説をスマホで録画して拡散する方法を説いていた。
馬鹿だと思った。
拡散する方法を説くより先に、「拡散したくなる演説」をせよ。
結局政治家は伝達力である。
何をどう言うか。
その「力」はスマホにはない。政治家の「言葉」にこそある。
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産業廃棄物 許可 行政書士
2019-04-04 Thu
新元号が決まった。「令和」だそうだ。ネットで知って、その字面と「レイワ」という音を口にしてみて「ウゲ」と思った。
命令の「令」に使い古された「和」がくっついているようにしか感じない。
そして何より「レイ」という音は冷たさを感じさせる。
と同時に数字の「0」(ゼロ)を連想して「0=」(ゼロイコールゼロ)が頭に浮かんでしまう。
万葉集が出典だとかでそれが偉い、脱中国、さすが安倍ということになっているが万葉集だったら他にもっと美しい言葉が幾らでもある。
レイワに違和感しか感じないままニュースなどを見るとその違和感がさらに倍増する。
誰も彼もが令和を素晴らしいと言う。文句のつけようがない、これからの時代にふさわしい元号だとかなんとか、街の人から政治家まで口をそろえる。
正面からダメ出ししていたのは社民党と共産党だけだった。

中国の古典から引っ張ってくるのを止めたのが評価されているが、その中国人は「諧音」(シエイン)=同音異義を重要視する。つまり耳で聞こえる美しさを大事にするから縁起の悪い「零」(レイ=ゼロ)と同じ音の「令」は使わない。
中国人はこの「令和」を見て「平和ゼロ」(平和な日はない)と読んで、「安倍は漢字を知らないのか」「なんてセンスのない元号だ」との声が相次いでいるとか。
自分もこればっかりは中国人と全く同意見である。
せっかくこれまでの慣習に逆らって国書からの出典にしたのに、選んだ安倍総理と有識者にセンスがなかったばっかりに全然日本を感じない冷たい響きの元号になった。
漢字の字面にも力強さがなくどこかマヌケである。
こうしてみれば一目瞭然だろう↓
株式会社 昭和食品 昭和運輸、昭和建設
株式会社 平成食品 平成運輸 平成建設
どれもその時代を生き抜こうという覚悟と夢が感じられ、サマになる。
令和はというと・・・
株式会社 令和食品(冷凍食品専門みたい)
株式会社 令和運輸(霊柩車を連想させる)
株式会社 令和建設(冷たい対応されてしかも貧弱な建物しか作れなさそう)
だから字面、音は大事なのである。
安倍首相も有識者も出典を国書にすることを目的化して、国民が使って心地よいかどうかまでは考えていなかったようだ。
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2019-03-11 Mon
東日本大震災から8年経った。ということはこのブログも書き始めてそろそろ8年経つということだ。

ブログを始めたきっかけは震災である。
震災というより民主党政権および民主党を擁護し続ける既存メディアへの怒りであった。
今となっては笑い話にも出来ようがあのときは本当にこのままでは日本が死んでしまうと思った。
震災当日、菅直人首相(当時)は政治家として「ジ・エンド」の土俵際まで追い詰められていた。マスコミは一切報じなかったが、菅直人が「市民の党」なる極左政治団体(代表をヨド号ハイジャック犯を両親にもつ人物が務める)に数千万円の政治献金をしていた事実を自民党の西田昌司議員が突き止め、国会でまさにトドメをさすところでグラグラッときた。
当然、その献金問題は霧と消えた。
菅は首の皮一枚で首相の座にとどまった。
それが福島の不幸につながった。
震災後にまでその件を追い続けたのは産経とニュースアンカー(関西テレビ)とニコニコ動画だけだった。
無能の偽善者は青い作業服を着て東電に乗り込み東電役員らを罵倒して原発を爆発させた。
ニュースを見ていると被災地の現状や鎮魂、傷跡、被災者の心の傷、別離、手紙など上っ面で感傷的なものばかりが目に付く。
鎮魂も大事だが、東日本大震災は単なる「天災」「自然災害」ではない。
あれは「日本の危機」だった。
余震、原発事故、放射線、デマ、風評被害、電力不足と計画停電、無能な民主党政権、大本営発表を垂れ流し続ける既存メディア、日本あやうしと見るや戦闘機を飛ばしてきたロシアなどなど、無数の困難と内外の「敵」に日本国民は脅かされた数ヶ月間だった。
僕はあれは戦争体験に近いものだったと思っている。
数ヶ月間、日本は日本という国と「戦争」をしていたのだと。
地震をきっかけに、それまでフタをしてきたり意に介さずにきた色んな矛盾や問題が爆発し、日本は数十年かけて自分が張り巡らした糸(法律や慣習・ルール)にじがんじがらめになって窒息しそうになった。
だから311は防災や救済の観点だけではなく、政治や行政、マスコミの報道のあり方までも含めて振り返り、語り合うべき日だと思っている。

福島第一原発で最後まで官邸と闘いながら指揮をとり続けた吉田昌郎所長や、ツイッター情報で火の海になった気仙沼の公民館にヘリを飛ばし446人の命を救った猪瀬直樹、無数の自衛官、消防隊員、警察官、自治体職員、避難誘導した施設やお店の店員さんたち、ネットやSNSで情報を拡散し続けた名もない人々。。。
311はただの地震ではないからこそ、そこには無数のドラマがあり教訓があり愚かさがある。
「東北頑張れ、被災地かわいそう」だけでは何も伝わらないし何も語り継がれない。
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行政書士 産業廃棄物 許可
2019-01-23 Wed
「馬鹿でもチョンでも」という言い回しがある。この「チョン」とは何か。
朝鮮人の蔑称という人もいれば、江戸時代からある言葉で「まともでない人」「半人前」を意味するという人もいる。
どっちにしろあまりいい言葉ではない。
日本人が朝鮮人のことをいつから「チョン」と呼び始めたのが知らないが、蔑称として全国的に使われ出したのはおそらく近代以降、半島の人々と日本人が密接に交流するようになってからであろう。
「チョウセン」が訛って「チョンセン」になり、略して「チョン」になったのか、それとも上にある、もともと日本語としてあった「チョン」(まともではない人、半人前)を語源にしているのか分からないが、後者だとしたら最初から日本人は朝鮮人を「どっかおかしい」と思っていたことになる。
「どっかおかしい」と思うから胸のすくような蔑称が必要となったのかもしれない。
「マイブーム」しかり「女子会」しかり、言葉とは必要から生まれ、反復され、広まるものだ。
語源に大した意味はない。
<今現在どう使われているか>が重要である。
で、「チョン」という言葉は現代では主に朝鮮人を馬鹿にするときに使う差別用語として定着している。
戦前からずっと使われていたであろうその言葉がネットを介して若い人に継承された。
2~30代の若い世代は、戦前~戦後すぐに生まれた世代に比べたら在日朝鮮人は身近な存在ではなかったはずで、ましてや在日朝鮮人が他の外国人より優遇されていることなんて知るよしもなかったのだから、朝鮮人を罵る蔑称など必要なかったはずである。
ちなみに僕の祖父も朝鮮人を「チョン」と呼ぶことがあったし、僕の母(60代後半)は昔アパートの隣に朝鮮人一家が住んでいて嫌な思い出があるから朝鮮人に良い印象は持っていない、と以前言っていた。
この世代は時代的にも身近に朝鮮人がいた世代だから彼らにマイナスイメージを持つのは理解できる。学校にも近所にも朝鮮人がいただろう。良い朝鮮人も要れば悪い朝鮮人もいただろう。
しかし80年代生まれの僕の身近に在日朝鮮人はいなかった。
今、学校にも近所にも朝鮮人なんていない。
いや、いても帰化しているか通称名を使っているから分からない。
現代における在日朝鮮人は、外形的には日本人とほぼ同化している。
そう考えると、いまネットで叫ばれている「チョン」だの「ニダ」の嵐はどこから来たのか?
という疑問が湧く。
残念ながら韓国と北朝鮮が自分で作り出したもの、と言わざるを得ない。
「チョン」がもともと「まともでない人」という意味であるならば、ここ20年の韓国や北朝鮮はまさにそれであった。
北朝鮮は社会主義の独裁国家だからまだしも、韓国の理屈を抜きにした極端なまでの反日政策は、日本人に再び「チョン」という言葉を必要とさせた。
くしくもそれがネット社会の広まりと時期的にシンクロしていたため、本当の「チョン」を知らない若い世代が「チョン」を使用するようになった。
口に出してではなく、手で打って。
テポドン発射、拉致問題、竹島の不法占拠から「日本海」の使用禁止の訴え、慰安婦像、徴用工賠償命令、そして今回のレーダー照射問題・・・と、この20年間、南北朝鮮は日本と日本人の名誉を汚し、貶め、ケンカを売り続けてきたといっても過言ではない。
日本政府はいまだに戦後レジウム的倫理感で「未来志向」などと大人の対応に徹しようとしているが、それが美徳である時代はもう終わった。
国民の声に耳を傾ければ、それに気付くはずである。
もはや韓国と仲良く手を携えてアジアの平和を築いていこうなどと考える日本国民はごく少数であろう。
最初は右翼の啖呵でしかなかった<断交>が、最近は現実的なカードとして真剣に叫ばれている。
若い世代の人たちは身近に在日朝鮮人を知らない人が多い。それは同時に、在日朝鮮人の友人を持つ機会もないということである。
祖父の世代は戦友であれ学友であれ、パクさんキムさんという友達や知り合いがいた。スタジオジブリもそうやって出来た。
朝鮮人でもフツーに友達になれることを祖父の世代は知っている。
しかしたとえば平成生まれの人にとって韓国人というのは、年がら年中日本を罵り、平気で嘘をつき、金をせびり、五輪でも反日活動をし、サッカーをすれば殴りかかってくるような、姑息で下品で暴力的な民族でしかないだろう。
友達になんかなれる訳がない―・・・。
そう思うのも無理はない。
が、だからこそ怖いのである。
口で「チョンころが!」と言えた世代より、スマホやキーボ-ドで連日「キムチ野郎が!」と連呼している世代のほうが韓国(人)への怒りと不満は上を行っている。
この怒りと不満はいずれ世論という形で政府に反射する。
弱腰の大臣が更迭され、強気の外交官が支持されるようになる。
政治が変わる。日本が変わる。
韓国は少しはそれを感じ取ったほうがいい。
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