悲しき玩具

米国玩具販売大手の『トイザラス』が破産し、今日、米国破産裁判所に事業の清算を申請したと伝えられた。全米700店舗はすべて閉店する。
日本の『トイザらス』175店舗は直接影響を受けず通常通り営業しているそうだが、少子高齢化が進む日本のほうが営業して本場が倒れるというのも皮肉な話だ。
経営破たんの原因はアマゾンなどネット通販の台頭。
直接店頭で玩具にさわり、欲しい物を選ぶ時代はアメリカの玩具業界では終わりを告げた格好である。
日本のトイザらスが健在なのは、もしかしたら日本人のほうがまだアナログ感覚が残っており、少子化といえども孫と一緒に店頭でプレゼントを買うのを楽しみにしている高齢者が多くいるからかもしれない。
少子化=子供関係のビジネスは全部先細り、ではなく、逆に、高齢化=孫のために金を使う高齢者が増える、と考えれば子供ビジネスもまんざら先細りと決め付ける訳には行かなくなる。
とはいえ子供の絶対数が減っているのだから、長期的に見ればやはり衰退産業であることに変わりはない。
それにしても、今の子供は一体どんな玩具で遊ぶのだろか。
自分の子供の頃に人気があったのはシルバニア・ファミリー、ウルトラマンのソフビ人形、ミニ四駆、ガチャポン、ゾイド、SDガンダム(プラモデル)などなどだが、それらはスーファミやゲームボーイが登場しても淘汰されずにむしろ子供部屋で同居して存在していた。同時に、今思うと不思議だが、メンコやベーゴマ、ヨーヨー、縄跳び、カン蹴りといったいかにも昭和な(まあ、昭和だったんだけどさ)なレトロな玩具や遊びも広まっていた。
「ちびまるこちゃん」が放送開始されたとき誰も「古っ!」と思わずにすんなりあの世界に入っていけたのは、90年代というのは新しいものとレトロなものがゴチャ混ぜになっていた時代だったからだ。
しかし子供というのは不思議なもので、それは今でも大して変わらないかもしれない。
以前にも書いたが、街中で小学生が「グンカングンカンチョーセン!チョーセンチョーセンハーワーイ!!」と叫びながら「軍艦じゃんけん」をしているのを見かけたこともあれば、どこかの地方では道端でメンコを叩いているキッズを見た。近所の子供たちはいつも集まっては自転車で駄菓子屋に行く。そこで世にもキテレツな色をした飲み物や、ヨーグルトのようでヨーグルトでない「何か」を小さな木のスプーンですくって食べたりするのである。
そこだけ見ると自分の少年時代とまったく変わっていない。
違うのはそのうちの何人かがスマートホンを持っていることくらいである。
「デジタル・ネイティヴ」(生まれた頃からデジタル空間で育った子供(世代)のこと。ネットやスマホ、SNS等があるのが自然なことでそれらにまったく抵抗がない)という言葉もあるが、日本の子供は世界的に見たらけっこうまだ牧歌的で、デジタル化されていないのかもしれない。世界の子供たちは実はもっと即物的で合理的で、デジタル的なのかもしれない。
と、トイザらスのニュースを見て思った。

でも、このあいだ兄夫婦と会ったとき、姪っ子(2歳)が勝手に親のスマホをいじくってユーチューブで『アンパンマン』を見始めたときはさすがに引いたけどね!。。。(-_-;)


暖かくなって、ストックがモコモコしてきた。
やっぱり春はいいねー。

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産廃 行政書士

2018.03.15 | | 時事問題

テレビ化したネット世界

個人や企業の言動が一般人の怒りを買い、その個人や企業に対する怒りがネット上に拡がることを「炎上」という。
新聞や週刊誌にも載らないアニアックな「炎上」もあれば、全国ニュースで取り上げられるほどの大炎上まで色々ある。
最近は芸能人のブログや番組内でした発言が取り沙汰されることが多く、ネットで炎上⇒ワイドショーでおさらい、という流れが定着している。
スマホが登場する前は、ここまでテレビとネットの距離は近くなかった。
00年代初頭、ソフトバンクが街頭で紙袋に入れたモデムを配り、一家に1台PCが置かれるようになっても、日本の既存メディアはいつまでも自分たちこそが「情報の王様」であり、ネットなどテレビとは直接競合しない、一部のオタクが使う「オモチャ」だと見下していた。
だからホリエモンがニッポン放送を買収しようとしたとき、すごい拒絶反応が起こった。タモリも中島みゆきも番組を降りると言った。ホリエモンという人間に対する胡散臭さもあったと思うが、何より新興勢力である「ネット」とか「デジタル」とかいうものに対する拒絶感がそこには滲んでいたように思う。
ブロードバンドが普及し通信インフラも整い、ニコニコ動画やユーチューブが出てきても、まだテレビおよびテレビ関係者は上から目線だった。
今でもはっきり覚えているが、あるダウンタウンの番組で、山崎邦正がネットラジオに出ていることが笑いものにされていた。芸能人の仕事で最も底辺にあるのがネット番組と言いたいらしかったが、そのとき山ちゃんを笑っていた松本はいまアマゾンプライムで「底辺」の仕事をしている。
「何がおかしいんですか!」とムキになっていた山ちゃんのほうが松本などよりずっと先見の明があった。
そんな風にテレビはネットを「いかがわしいモノ」と白い目で見ていたし、ネットはテレビを「古い」と馬鹿にしていた。
しかしいまはどうだろう?
ネットで炎上したり話題になるのはテレビで放送された事柄が多数を占め、スマホでYahoo!を開けば出てくるのはあの芸能人がこんなことを言った、あんなことを言った・・・・そんな記事ばかりである。
要するにニュースソースが既存メディアが発したものなのである。

かつてはネットというのは自分が主体的に能動的に「面白いニュースや場所を探す」ものだった。
それがいまじゃテレビや雑誌のWEB版のおこぼれに預かり、テレビを見るのと同じ受身の姿勢で情報を享受している。
このような<ネットのテレビ化>を招いたきっかけがスマートホンの登場であることは言うまでもない。
ガラケーとは比べ物にならない手軽さと使いやすさで「ネット」を携帯できるスマホの登場で、構図そのものが変わった。
もはや「既存メディアVSネット」などという対立軸が意味をなさなくなるほど、スマホは情報を格納でき、ユーザーそれぞれの嗜好によりカスタマイズできた。ほとんど電話というよりゲーム機代わりにする人、音楽プレイヤーとして使う人、動画を投稿する人・・・。
人のライフスタイルそのものを変えた。
スマホによって、かつては明確にあったテレビとネットの境界線が薄れた。
それでどうなったか。
境界線が薄れるとなだれ込むのはいつも悪臭と決まっている。
デスクトップやガラケーよりずっと受動的に情報を享受しやすいスマホにテレビ的な素材はなじみ易かった。
人気モデル、美味しいお店、お笑い芸人、地下アイドル、着るだけで腹筋が割れるシャツ、ワイドナショー、渡辺直美、平野ノラ・・・・・それらの広告やキーワードをスマホを通して毎日のように見ている。いや、見させられている。

かつてのネットにあったいい意味での「閉鎖性」「ネットらしさ」はスマホを通してみる「ネット」の中にはもうない。
スマホ=「ネット」と見ることで、ネットがメインストリームになったと見るべきなのか、それともスマホが媒介したことでネットがテレビに乗っ取られたと見るのか・・・微妙なところだ。
いずれにせよ、僕らはスマホという未来の道具を通して、テレビ的な、偽善と感情優先の思考に「戻されている」のは確かだ。
その証拠に、くだらない「炎上」が後を絶たない。
NHKの「みんなのうた」で流されていた『あたし、おかあさんだから』という歌の歌詞が押し付けがましいとかで炎上し、現在配信停止状態になっている。
宇野昌磨の女性コーチがちょっと美魔女風だからというだけで「ベタベタしすぎる」「ネイルが派手すぎ」「キモイ」「恋人つなぎすな」などなど散々な言われようだとか。ネットの中で。。

こういう記事に必ず書かれる「ネットの中で」の「ネット」とは、一体どこのネットなのだ?
今起こっている上の2つの「炎上」が、スマートホン登場以前にも起こったとは僕にはどうしても思えない。
「スマホ」とは、「テレビ化したネット」のことだ。

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産業廃棄物 許可 行政書士

2018.02.25 | | 時事問題

アジアの純真

ピョンチャン五輪が開幕した。氷上のマグマ・羽生結弦がケガを乗り越えて連覇を成し遂げるか、パッチリ二重メイク術を習得し最高級ベンツ4WDを乗り回し「風の精」から見放された高梨沙羅が吹っ切れてメダルを獲得するか・・・気になるところ。
現地の会場ではノロウィルスが蔓延し開会直前に関係者1000人以上が感染するというトンデモ事態に陥っているが、それでも開会式はつつがなく行われ、明日から本格的にメダルレースが始まる。
韓国から少し南に視点を移すと、台湾では大地震があって当然ながら日本が大きい声で支援を申し出た。東日本大震災では台湾から200億円もの義捐金が送られたが、今度は自分らが恩返しする番だということでツイッターでは「♯台湾加油」(台湾頑張れ)がトレンド入り。多くの応援の声が挙がっている。
ちなみに東日本大震災の時に日赤に送られた義捐金を一番多く出したのはアメリカで、次が台湾、その次はタイ、オマーン、中国・・・と続く。で、18位モンゴル、19位フィリピン、20位イタリアとなるのだが、一番近くにあるどこかの隣国は一向に見当たらない。開会式では大層な美辞麗句を並べ立てていたが、やっぱりそういう人たちである。

ところで震災直後に200億円もお金を日本に送ってくれたにもかかわらず、NHKはじめ親中メディアは中国に配慮してこの台湾の「気持ち」をほとんど報道しなかった。だからいまだに台湾が「日本LOVE」という気持ちで多額の義捐金を送ってくれていたことを知らない日本人は多い。
と、思っていたのだが、この「台湾に恩返し運動」を見る限り、7年経って情報も行き渡ったようだ。
台湾こそは戦時中の日本の統治が「植民地支配」などという白人じみた搾取の限りを尽くすようなものではなかったことを証明する唯一の「良心のある隣国」だが、だからこそ中国は日本と台湾の距離が縮まることを極度に嫌う。
今回の地震の災害支援も中国の申し出を断って日本の支援だけ例外的に受け入れることにした台湾に対し、中国は反発。日本にも抗議してきた。台湾を自国の一部と思っている中国としては、頭越しに日本と台湾が蜜月めいた関係になるのが不愉快でならないのだ。
しかしその中国だって311の時には義捐金を送ってきた。「ひとつの中国」を標榜している手前、台湾が独立した国家であると認めるような行動をとる国やリーダーに抗議をするのは当然と言えば当然だ。自分が逆の立場でも「おいおいおい」と言うだろう。尖閣を狙ったりサンゴを密漁したり色々迷惑な国だが、もともと拡大思想の国だからそれもまあ理解は出来る。(許すという意味ではない)

やっぱり一番理解できないのは・・・いまオリンピックやっている国だな。
自分が逆の立場でも・・・それはしないわ。。(-_-;)
ということばっかりやってる国である。

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大阪 産業廃棄物 許可

2018.02.09 | | 時事問題

笑ってはいけなくない

連休中もちまちま働いていたけど、今日から本格的に仕事始め。
朝から電話はリンリン、街に出れば車はビュンビュン、自転車シャアシャア、正月の名残なんて微塵もない。コンビニに入れば「今年の恵方は南南東」なんて言っている。切り餅も食べきらぬうちに豆まき気分である。

大晦日の笑ってはいけないバラエティ番組にも思わぬクレームがついたのも、なんとなく正月気分に冷や水・・・の感があった。
知らない人のために書いておくと、大晦日の番組で、ダウンタウンの浜ちゃんが顔面を黒塗りにして『ビバリーヒルズコップ』のエディ・マーフィーのコスプレをしたのが「人種差別的だ」と、一部の海外メディアが報じ、それが日本国内で反発を招いている。
顔を黒く塗ったのが気に入らなかったらしい。
エディ・マーフィーといえばかつて「サタデー・ナイト・フィーバー」で「1日白人になってみる」というのがあった。
顔を白く塗り、いかにもホワイトカラーの白人ビジネスマン風のスーツとカバンを持って街を歩くのだ。「白人らしい歩き方」「白人らしい喋り方」をぎこちなく試みるエディの挙動不審さに抱腹絶倒間違いなしの映像である。
黒人一人と白人数人がバスに乗っている。黒人青年がバスから降りると、待ち構えていたように白人たちが立ち上がって踊りだし、ワインをあけ、黒人のいなくなった車内はパーティーバスに変わる。白人としてその場に紛れ込んでいるエディはそれを目の当たりにして「自分たちの知らないところでは白人たちはこのように振舞っていたのだ!」と大真面目に報告する。
他にも「白人の罪悪感を利用したテーマパーク」とかいって、かつて黒人奴隷がされたように、白人を綿畑で働かせ、ムチ打つのである。僕の記憶が確かなら白人にムチを打っていたのはスティーヴィー・ワンダーであった。
なかなかどぎついブラックジョークだが、これが許されたのはコケにする対象が白人(社会)だったからで、白人が黒人のフリをして・・・なんて企画だったらどうなったか分からない。

僕は浜ちゃんのエディ・マーフィーが人種差別的だなどとは微塵も思わないが、日本語も日本の笑いも知らない外国人から見たら、黒人に扮することを笑いの対象にしているように見えたかもしれないとは思う。
ただ、極東の島国の大晦日にしかやらない番組の1コーナーになぜニューヨークタイムズはじめ外国メディアがそこまで反応するのかは謎だが。おおよそ、日本国内の人権団体か何かが働きかけて、日本人の弱い<外圧戦法>を仕掛けた、といったところだろう。
今回、何か教訓めいた要素があるとすれば、それは、「ガキ使」スタッフは、やるなら「サタデー・ナイト・ライブ」のエディ・マーフィーのようにやれ。
ということか。
人種や政治信条、宗教、身体的特徴・・・人は自分と他者との差異を笑う生き物である。それをネタにしておおっぴらに笑いものにすれば、誰かは必ず不快に思い、傷つきもする。
しかし優れたコメディアンは人を傷ける前に笑わせることが出来る。呆れさせながらも感心させ、不快なのに共感を覚えさせることができる。
それをするには相当程度の知性と教養とユーモアとバランス感覚が必要で、そういうレベルの「笑い」は万国共通で受け入れられ得る。
「笑ってはいけない」は年々マンネリ化も進み、昔のようなひねりの効いた、思わず感心してしまうようなシチュエーションや「持って行き方」は少なくなっているように感じる。
これを機に初心に戻って、もう少し「頭で笑わせる」「ユーモアで笑わせる」方向にシフトしたらどうだろう。
ひとりよがりの偽善者たちの見当はずれなクレームなんかで打ち切る必要なんてまったくない。
てか、ジミーちゃんの出番を増やしてくれ。


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産業廃棄物収集運搬業の許可が欲しい!

2018.01.09 | | 時事問題

インスタ時代の「他人」

今年の流行語に「インスタ映え」というのがあった。
インスタグラムに投稿するとたくさん「いいね!」をしてもらえそうな被写体のことを指し、「インスタ映えしそうな風景」とか「インスタ映えしそうな料理」とか言う。
そこからも分かるように、インスタグラムでは写真の「腕」より、被写体に意味があるらしい。
もちろん、可愛いものをより可愛く、美しいものをより美しく撮影したほうが効果はあるだろうし、最低限、他人の鑑賞に堪えうる画像であることが必要だ。
しかし手ブレ画像でもピントが合っていなくても、補正アプリでデコデコしていても、「いいね!」がたくさん付く写真がある。その基準が何なのかは定かではない。定かではないからのめりこめる、という側面もあるだろう。
一般的な意味での「良い写真」と、インスタもしくはSNS内での「良い写真」は別物である。
メープルソープのような花の写真や、カルティエ・ブレッソンのような「決定的瞬間」の写真がSNSで「いいね!」をたくさんもらえるかといえば、答えはNOだろう。
SNSの世界では芸術性より「ぱっと見」の面白さや可愛さ、お洒落さが大事なのである。

さて、その「インスタ」に関して、ちょっと考えさせられるニュースを見た。
「レンタル友達」といって、インスタで「いいね」をしてもらうためだけに、お金を出して「インスタ映えする」偽の友達を呼ぶサービスがあるというのだ。
現れた「レンタル友達」は確かに小奇麗で、派手すぎず、「街で見かけるキレイなひと」タイプの女性で、依頼人(女性)と一緒に夜景をバックに写真を撮ったりしていた。
依頼人にはれっきとした「本当の友達」がいるらしいのだが、その友達ではインスタ映えしないのだという。
要するにその依頼人は、現実の自分を現実以上に輝かせるために、金を払い、見栄えの良い「偽りの友だち」を雇ったということなのだ。
「ほら、私にはこんな意識の高いアッパーなオシャレな友達がいるのよ」ということを世界中に示し、自己充足を得たいがためだけに。
もう一人の依頼人は中年の女性で、インスタ映えが目的ではなく、話し相手を求めている人であった。その依頼人にもリアルの「友達」はいるのだが、リアルの友達には言いにくいことを「レンタル友達」に打ち明けたりする。以前、「リア友」に私生活の話をしたら尾ひれの付いた変な噂として広められ、ひどく傷ついたことがあるらしく、それ以来人間不信で、「レンタル友達」に頼るようになったという。
なんだか、どっちにしても、心が重くなるニュースだった。

他者からの評価を自分のアイデンティティーのより所とするのは自然なことである。僕もそうだ。
絶対的に自分に自信がある人は他人の評価などで自分を測ったりしないが、そういう「強さ」が自分にも欲しいと思う。
しかし「レンタル友達」まで行くと少々病的な感じがする。
というか、その執念があれば、実は「いいね!」などなくても自分を肯定できるんじゃないかと思うくらいだが、多分本人がそのことに気付くことはない。
アメリカの女性ポップス歌手のケイティ・ペリーは先日、こんなつぶやきをした。
「インスタグラム・カルチャーが終焉を迎えるのが待ちきれない。そうすれば、私たちみんな、再び自分自身になれる」
ケイティ自信、インスタで6800万人ものフォロアーを抱えている「インスタの女王」だが、何か間違った方向に進みつつあると感じているのかもしれない。

認められたい。
褒められたい。
最初はホームページ、それからブログ、ミクシィなんてのもあった。同じ頃、出会い系サイトも乱立した、それからツイッターが流行り、フェイスブック、そしてインスタ・・・。
ソーシャルメディアの歴史は即ちユーザーの承認願望と自己充足を満たすビジネスの歴史といっても過言ではない。
10年前は本名や顔をネットに晒すなんてあり得なかったが、今じゃそれも当たり前の時代で、フェイスブックに本名から顔、出身校から勤務先まで堂々と載せている人がたくさんいる。そうやって現在(いま)の自分を見せることで何かしらの精神的満足を得ている。

みんながお互いを認め合う社会は素晴らしい。
褒め称え合い、ともに刺激を与え合う関係。
園芸でもスポーツでもお洒落でも料理でも、「見せる」「シェアする」相手がいるからこそ続けられたりもする。
しかし他人からの承認を目的化すれば、必ず失望が伴う。狙ったとおりの評価が得られるとは限らないからだ。
さらに、不特定多数の他人に評価されようと仮想の「誰か」を基準にした「自分作り」にまい進し、自己を他有化(人の所有物になること)するようになる。簡単に言えば「いいね!依存症」だ。
哲学者のジャン・ポール・サルトルは「地獄とは他人のことだ」と言ったが、こういう時代だからこそ考えてみたい言葉である。
サルトルの言葉の解釈はともかく、一般的に、他人とは基本的に冷淡でつかみどころのないものである。
かくいうこの僕も、ブログで自信満々の出来栄えの寄せ植えやリースの写真をUPしてもコメントが一つも来ない、それどころか自分的にはさほど重要でもない記事や写真を褒められたり、色々あった。
SNSなんて基本的にはそんな世界である。

金で人の評価を買うことは出来ない。一時的には出来るだろうが、SNSで評価を得る人というのはみな「続けられる人」「続ける人」である。
努力家といってもいい。
自然体であることも大事だ。
焦らず、がっつかず。

そういうものに、わたしもなりたい。

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2017.12.25 | | 時事問題

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Author:yuhei
築30年の借家でホームオフィスをしながら理想の庭づくり、理想のインテリアを探求する日々の記録。
「一般教養としてのロック史」管理人。興味のある方は覗いてみてください。ネットショップも地味に
コメ欄クローズ中ですので、現在お声はメールでお願いしております。
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